チャップマンは60~70年代のF1に革命を起こした
© Bob Harmeyer/Archive Photos/Getty Images
F1

F1史に名を残すトップデザイナー ベスト10!

偉大なドライバーの成功の陰には偉大なデザイナーあり。F1の歴史上に名を残すトップデザイナーたちを一挙紹介。
Written by Will Gray
読み終わるまで:10分公開日:
かのLotusの創始者で、自らもF1史における数々の革新的なデザインを生み出したコーリン・チャップマンはかつてこんな言葉を残している。「レーシングカーの存在意義はただひとつ。レースに勝つことだけだ。そのマシンがレースに勝てないなら、それはすなわち時間と金、労力の浪費に他ならない」― まさしく至言である。
これまでF1史において偉大な成功を収めてきたドライバーたちの栄光の陰には、必ず優れたマシンが存在する。そのマシンを生み出すデザイナーは、チームにとって最も重要な成功への鍵を握る存在と言えるだろう。
今回はF1史に名を刻む偉大なデザイナーたちを10名選んで紹介する。
シューマッハのFerrari初テストに立ち会ったバーナード

シューマッハのFerrari初テストに立ち会ったバーナード

© Rainer W. Schlegelmilch/Getty Images

ジョン・バーナード
カーボンファイバー・モノコックをF1で初めて導入
60年代後半に英国Lola社でレーシング・エンジニアとしてのキャリアを開始したジョン・バーナードは、スポーツカーのライトバルブのデザインなどで経験を積んだ後、1970年代にはチャンピオンマシンMcLaren M23の設計に関わり、やがてF1界におけるイノベイターとしての名声を確立した。
McLarenがロン・デニス体制へ移行した1980年、バーナードはF1界で初めてカーボンファイバー・モノコックを導入。軽量性と高剛性を飛躍的に向上させると共に、マシン後部のカウルをタイトに絞り込んでリアウィングの効率を最大限に高める「コークボトル・ライン」と呼ばれる空力思想を取り入れた。彼がデザインを手掛けたMcLaren MP4/1・MP4/2系シャシーは1980年代中盤にかけて最も魅力的かつ独創的なマシンとして知られ、ニキ・ラウダやアラン・プロストに複数回のタイトルをもたらした。
1990年代にはFerrariにおいて640(F1初のセミオートマチック・トランスミッションを搭載)の設計を手掛けるが、やがてチーム内部の政治的内紛に嫌気が差し離脱。その後在籍したBenettonでは、ロリー・バーンとの共同作業によって後のミハエル・シューマッハの成功に向けた礎を築いた。F1から身を引いたバーナードは、現在自身の自動車デザインオフィスを経営している。
Brawn GPは2009シーズンの両タイトルを獲得

Brawn GPは2009シーズンの両タイトルを獲得

© Vladimir Rys/Bongarts/Getty Images

ロス・ブラウン
自らチームを率いてドライバーズ/コンストラクターズ両タイトルを制覇
ロス・ブラウンは当然ながら非常に高いスキルを持つF1エンジニアだが、チーム全体の統率能力においても卓越した手腕を発揮した。
近代F1のマシンデザインは、ただひとりの天才デザイナーの主導によって成し遂げられるものではなくなっている。空力やビークルダイナミクス、構造分析など各分野において分業化が進み、複数人のエンジニアたちが関わるため、その全体を正しい方向性へと導くテクニカル・ディレクターの存在が非常に重要となっている。
ブラウンはテクニカル・ディレクターとして近年稀に見る大きな功績を残した人物であり、BenettonやFerrariに複数回にわたりワールドチャンピオンをもたらした後、2008シーズンからはHonda F1のチーム・プリンシパルに抜擢された。翌2009シーズン、Honda撤退後にBrawn GPへと改められた自分のチームを率い、ジェンソン・バトンに初タイトルをもたらすと共にコンストラクターズ・タイトルも制覇。Mercedesへの売却後もチーム代表として留任し、2014シーズンを前に勇退した。
シューマッハ・ドリームチームの一翼を担ったバーン

シューマッハ・ドリームチームの一翼を担ったバーン

© Mark Thompson/Getty Images

ロリー・バーン
「シューマッハ・ドリームチーム」の一翼を担う
寡黙な南アフリカ人のロリー・バーンは極力メディアでの露出を避けようとしているが、彼こそがミハエル・シューマッハのBenettonとFerrari時代の成功における影の立役者だ。
化学者だったバーンは正式な工学実習の経験を持たなかったが、1970年代末にTolemanへ加入。1986年にはその後継チームBenettonで、ゲルハルト・ベルガーのドライブによって自身の手掛けたマシンが初勝利を飾る。1990年代に入ると、Benettonにはロス・ブラウンとミハエル・シューマッハが合流し、バーンと共に1994シーズンおよび1995シーズンのチャンピオンシップを席巻する。その後バーン/ブラウン/シューマッハの3人は優勝請負人として揃ってFerrariへ移籍し、6シーズンにおいて6回のコンストラクターズ・タイトルと5回のドライバーズ・タイトルという圧倒的な功績を残した。
チャップマンは60~70年代のF1に革命を起こした

チャップマンは60~70年代のF1に革命を起こした

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コーリン・チャップマン
Lotusで数々の技術革新を生み出す
コーリン・チャップマンが生涯追い続けてきた軽量化への揺るぎない信念は、1960年代から1970年代にかけて彼のLotusチームに多大な成功をもたらした。
「馬力をアップすれば直線は速くなる。だが、軽量化をすればサーキット全体の速さにつながる」― これもまた、チャップマンが残した名言のひとつだ。
Lotusはストラット式サスペンション、モノコックとエンジンのストレスメンバー化、サイドポッド、ウィング、グラウンドエフェクト、更にはマシンを広告スペースとして利用するスポンサーシップの概念など、今日のF1にも綿々と繋がる数々の革新を成し遂げた。チャップマンはジム・クラーク、グレアム・ヒル、ヨッヘン・リント、マリオ・アンドレッティといった伝説のドライバーたちと共に60年代~70年代のF1で幾多の栄光を共にした。
Cooperのミッドシップ・レイアウトは大幅な革新をもたらした

Cooperのミッドシップ・レイアウトは大幅な革新をもたらした

© Alvis Upitis/Getty Images

ジョン・クーパー
ミッドシップエンジンでF1黎明期に革新をもたらす
ジョン・クーパーとその父であるチャールズがエンジンをマシン後部に配置するデザインを行ったのは、必要に追われてのことだったが、このデザインは1950年代当時まだ黎明期にあったF1のエンジニアリングを大きく飛躍させることになった。
かの名手スターリング・モスがステアリングを握ったCooper T-45は1958年アルゼンチンGPでMaseratiやFerrariといったイタリアの強豪勢を見事に破り、ミッドシップエンジン車としての初勝利を飾った。また、翌1959シーズンおよび1960シーズンにCooperを駆ったジャック・ブラバムは2年連続でタイトルを獲得した。
コスタはFerrariとMercedesの両チームにタイトルをもたらしている

コスタはFerrariとMercedesの両チームにタイトルをもたらしている

© Getty Images for Shell

アルド・コスタ
FerrariとMercedesにタイトルをもたらす
現代F1界を代表するデザイナーのひとり、アルド・コスタはかつてFerrariに在籍し、2012年からはMercedesへ移籍。彼のマジカルな手腕でデザインされたシルバーアローはここ数年のシーズンを席巻している。
コスタはロリー・バーンのアシスタントとしてFerrariに加入すると、シューマッハ黄金時代の立役者のひとりとして活躍。2006年からはデザイン部門のチーフへ昇格し、2007年には自らが中心となって設計したF2007でキミ・ライコネンをドライバーズ・チャンピオンへ導いたが、2011年にFerrariを退職し、翌年にMercedesへ移籍した。
Mercedesでの彼は、テクニカル・ディレクターのボブ・ベルの主導のもと2013シーズン用のW04をデザインし、チャンピオンマシンの基礎を築いた。
Williams F1の共同設立者ヘッド(写真左)

Williams F1の共同設立者ヘッド(写真左)

© Rainer W. Schlegelmilch/Getty Images

パトリック・ヘッド
サー・フランク・ウィリアムズと共に名門Williamsを設立
不屈の闘将サー・フランク・ウィリアムズと共にWilliamsを設立したパトリック・ヘッドは自らのエンジニアとしてのキャリアのすべてをこのチームのために捧げ、27年間にも渡って同チームの技術部門を統率してきた。
ウィリアムズとヘッドがWilliams Grand Prix Engineeringを設立して2年目となる1979年、ヘッドがデザインを手掛けた名車FW07でクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を記録すると、翌1980シーズンはアラン・ジョーンズが正常進化型となるFW07Bを駆ってドライバーズ・チャンピオンを獲得。1980年代中盤からは当時最強のHondaエンジンを手にし、ナイジェル・マンセルとネルソン・ピケの二枚看板でGPを席巻した。その後、1990年代にヘッドがエイドリアン・ニューウェイという空力の天才をチームに引き入れると、Williamsはさらなる成功を手にすることになった。
ヘッドとニューウェイのコンビネーションは1991年から1997年にわたって続き、Williamsは数多くのレースで勝利を記録したのはもちろん、4名のドライバーにチャンピオンをもたらした。ニューウェイの離脱後、Williamsはかつてほどの技術的優位が保てなくなり、ヘッドは2011シーズン末をもってチームの現場指揮から退いた。
議論を巻き起こしたマレーの珍車「ファン・カー」

議論を巻き起こしたマレーの珍車「ファン・カー」

© Grand Prix Photo/Getty Images

ゴードン・マレー
F1史上屈指の珍車Brabham BT46B「ファン・カー」を発案
ゴードン・マレーはF1史に残るきわめてラディカルな珍車を手掛ける一方、圧倒的な強さを誇る名マシンも生み出してきた鬼才だ。
彼の名はBrabham BT46B「ファン・カー」によって一躍有名になったが、そのあまりに独創的なデザインは1977年スウェーデンGPただ一度のみの出走で使用禁止になったほどだ(ちなみに、このスウェーデンGPでBT46Bを駆ったニキ・ラウダは見事な独走で優勝を飾った)。1980年代後半にはMcLarenへ移籍し、スティーブ・ニコルスやニール・オートレーと共にMP4/4をデザイン。Honda V6ターボエンジンを搭載したこのマシンは現代でも史上最強のF1マシンのひとつとしてその名を知られている。マレーはその後F1の現場を去り、1991年にはMcLarenの市販車部門へ移籍。現在は、軽量なシティカーおよびスポーツカーの設計を手掛けるデザインオフィスを自ら経営している。
ニューウェイはRed Bull Racingを常勝チームへと押し上げた

ニューウェイはRed Bull Racingを常勝チームへと押し上げた

© Mark Thompson/Getty Images

エイドリアン・ニューウェイ
Williams、McLaren、Red Bull Racingに数多くのタイトルをもたらす
エイドリアン・ニューウェイはWilliams、McLarenといった過去に在籍したチーム、そして現在籍を置くRed Bull Racingのすべてのチームにタイトルをもたらしており、数多のレースで勝利を味わってきた。
パブリック・スクールを放校処分になったものの(学園祭のコンサートで音響を担当していた彼が音量を上げすぎて講堂のステンドグラスを割り飛ばしたことが原因)、サウザンプトン大学で空気力学の学位を取得した彼は1980年代後半にMarch F1に加入。その先進的な空力思想を盛り込んだマシンデザインで早くも高い評価を得るようになる。1990年からはWilliamsへ移籍しパトリック・ヘッドとの共同作業のもと5度のワールドチャンピオン獲得に貢献。1997年にMcLarenへ、そして2006年にRed Bull Racingへ移籍して現在に至る。ニューウェイはチーム・プリンシパルのクリスチャン・ホーナー、そして若きセバスチャン・ベッテルと共に4年連続でRed Bull Racingにワールドチャンピオンをもたらした。
ウーレンハウトのマシンは50年代のMercedesに栄光をもたらした

ウーレンハウトのマシンは50年代のMercedesに栄光をもたらした

© GP Library / Getty Images

ルドルフ・ウーレンハウト
1950年代のF1を席巻したMercedesシルバーアローの設計者
ロンドンに生まれたルドルフ・ウーレンハウトはドイツの大学で学んだ後にMercedesへ入社し、入社5年目には早くもMercedesのレース車両開発部門の責任者にまで登り詰めた俊才だった。彼は、「初代シルバーアロー」として知られるW25(1934年)、そして戦前GP史における最強のレーシングカーと謳われた名車W125(1937年)の生みの親として知られる。
第二次世界大戦終結後、ウーレンハウトはメッサーシュミット戦闘機の燃料噴射装置を流用したW196Rでチャンピオンシップを席巻。モンツァやシルバーストンなどの高速サーキットでは4輪をすっぽりと覆う「ストリームライナー」と呼ばれるフルカウル・ボディを採用(当時のレギュレーションでは有効であった)したW196Rは、ファン・マヌエル・ファンジオに1954年および1955年のチャンピオンシップ2連覇をもたらした。