クレイグ・ケリーが築き上げた表現という価値

元ライダーの雑誌編集長が綴る SNOWBOARDING IS MY LIFE. Vol.6
1985年にパイプ・ラヴィーン(ハーフパイプの原型。ラヴィーンとは沢や渓谷の意)を流すクレイグ。これぞ、フリースタイルの原点
1985年にパイプ・ラヴィーン(ハーフパイプの原型。ラヴィーンとは沢や渓谷の意)を流すクレイグ。 © Bud Fawcett
By 野上大介

【写真】
1985年にパイプ・ラヴィーン(ハーフパイプの原型。ラヴィーンとは沢や渓谷の意)を流すクレイグ。これぞ、フリースタイルの原点
photo: Bud Fawcett

1986年から4年連続で世界チャンピオンに輝き、3度の全米オープン制覇、そして、マウント・ベイカーで開催されるバンクドスラローム(自然地形を活かして造られたバンクを滑るタイムレース)でも3回優勝を飾るなど、スノーボードの大会が行われるようになってから最初のスーパーヒーローが誕生した。

1966年4月1日、アメリカ・ワシントン州のマウントバーノンという小さな町で、彼は生まれ育った。シアトルから北へおよそ100kmという地の利を活かし、15歳だった1981年にスノーボードを始めると、マウントベイカーやスティーブンズパスというワシントン州を代表する世界最高峰のリゾートでライディングする日々を過ごしていた。17歳までレース活動を続けていたBMXで培ったバランス感覚が功を奏したのだろうか。瞬く間に高次元のライディングスキルを身につけていき、雪上で一本の板に跨がるようになってからたった5年で、前述したようなスターダムにのし上がっていったのだ。

その男の名はクレイグ・ケリー、享年36歳。スノーボーダーであれば周知の事実だが、2003年1月20日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のレベルストークにて雪崩に巻き込まれてこの世を去った、伝説のスノーボーダーである。

彼が頭角を現した80年代。ネオンカラーのウエアを身にまとい、レース系のアルペン競技や、手作り感満載のハーフパイプでのコンテストがシーンの中心だった。90年代初頭まで圧倒的な強さを誇っていたクレイグは、現在とは比べものにならないほどホールド性の乏しかったソフトブーツを履いてレース競技にも参戦していた。ハーフパイプだけでなく結果を残していたことは特筆すべきだろう。とにかく“板に乗れていた”のだ。

しかし、当時はたった数百ドルの賞金を争っていたコンテスト全盛期。車中泊や友人宅のソファで生活していたような時代だっただけに、スノーボードだけで生活していくという考えを真剣に受け止める者などいなかったのだが、クレイグだけは違った。

それは、次に挙げることに示されている。コンテストでの活躍だけでなく、彼は早い段階からフォトグラファーやフィルマーらと行動をともにするようになり、雑誌の表紙やテレビコマーシャルにも登場していた。自分自身の価値を、どのようにスノーボード発展のために寄与することができるのか、ということを理解していたのだろう。勝つための滑りだけでなく魅せるための滑り、という新たなる価値観を提唱した。これが今日まで受け継がれている、競技性よりも表現力を重んじるプロスノーボーダーとしての生き方の礎となるわけだ。

そしてさらなる発展を望んだクレイグは、ひとつの決断を下すことになる。それは、SIMSからBURTONへの移籍だ。

つづく

 

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野上大介(Daisuke Nogami)

スノーボード専門誌「TRANSWORLD SNOWboarding JAPAN」編集長。1974年、千葉県生まれ。全日本スノーボード選手権大会ハーフパイプ種目に2度出場するなど、複数ブランドとの契約ライダーとして活動していたが、ケガを契機に引退。現在に至る。アクション&アドベンチャースポーツのインターナショナル・フォト・コンペティション「Red Bull Illume Image Quest 2013」の日本代表審査員。また、ソチ五輪スノーボード競技におけるテレビでの解説やコメンテーターとしても活動するなど、その幅を広げている。

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