1982年から1986年にかけて、WRCではグループB規定が施行されていた。この4年間に生まれたマシン群は極めてパワフルな猛獣で、なかには600馬力オーバーを叩き出すマシンさえ存在した。グループBマシンは非常に危険性が高かったが、同時にスリリングでもあり、その伝説は現代も語り継がれている。
Audi QuattroやLancia DeltaはグループB全盛期を代表する名車として今も燦然と輝いているが、当時は上位から下位までグループB規定が適用されていたため、小型なものや目立たないものまで多種多様なマシンが存在した。決して派手な注目を浴びることはなかったが、これらのマシンもまた偉大なグループBの歴史の一部であることに間違いはない。
1. Lada VAZ 2105 VFTS
このロシア産グループBマシンは後輪駆動で、当時のトップクラスを脅かすには300馬力ほどエンジンパワーが不足していた。しかし、ロシアラリー史におけるLada 2105 VFTSの重要性は決して小さなものではない。Fiat 124のプラットフォームを流用したこのマシンは、アルミニウム製ボディパネルを採用。わずか820kgという軽量性を誇った。160馬力を発生する1600ccエンジンで後輪が駆動するこのマシンは、固く閉ざされた鉄のカーテンの向こう側でラリーを広める起爆剤となった。東欧版Ford Escortとも言える汎用ラリーマシンだったのだ。
Lada 2105 VFTSの武器は極めて高い信頼性だった
2105 VFTSは最速マシンではなかったが、極めて高い信頼性を誇っていた。リトアニアのチューナーが手がけた2105 VFTSは1986シーズンの1000湖ラリー・B10クラスでニコライ・ボルシクが優勝し、Lada製マシンが1~6位を独占した。これは2105 VFTSのベストリザルトだ。期待されていたCitroën Visa 1000 PistesもLada勢の高い信頼性には勝てなかった。
2. Peugeot 504 Pickup
グループB時代のPeugeotの代表的マシンといえば205 T16だ。しかし、同時期のPeugeotには、ケニアのモンバサで設計・製造された504 Pickupというマシンが存在した。
かつてサファリラリーを制した経験もあるラリースト、ピーター・ヒューズはケニア企業のAssociated Vehicle Assemblers(AVA)と共同でケニア市場向けにピックアップ仕様のPeugeot 504をライセンス生産した。この車の年間生産台数は200台を優に超えていたため、競技用ベース車両としてのホモロゲーション取得が可能だった。そこでヒューズとAVAは504 Pickupをラリー仕様にするために必要なパーツを買い集め、20台のラリー仕様車を製造した。このマシンはFISAのホモロゲ審査を通過し、1983シーズンからグループBラリーに出走できることになった。20台が生産された504 Pickupだったが、その大半は実戦に出走することはなかった。しかし、AVAはホモロゲ申請をしていない様々な改造を施した “ワークス仕様車” を1台保存していた。1984年のサファリラリーに出走したこのマシンは大きな注目を集めることになったが、残念ながら、この504 Pickupは序盤で岩に乗り上げてリタイアを強いられた。
3. Talbot Lotus Horizon
WRCにおけるPeugeot TalbotとLotusの提携契約は、Talbot側に在籍していた伝説的な英国人マネージャー、デズ・オデルによって急遽締結された。急ごしらえのパートナーシップにも関わらず、Talbot Lotusは1981シーズンのWRCマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得した。
その翌年1982シーズンよりWRCにグループB規定が導入されると、オデルは新しいアイディアの必要性に気付いた。そこで彼は再びLotusに接触し、Talbot Horizonの後部座席を取り去ってLotus Esprit用ターボエンジンをミッドシップマウントする構想を持ちかけた。これに合わせてEspritの5速ギアボックスも移植され、フロント部分にはインタークーラーが搭載された。また、マシン全体にコンポジット素材をふんだんに組み込んだ結果、マシン総重量は1,000kg以下に抑えられた。
Talbot Lotus Horizonのコーナーリング性能は興味深いものでした!
Peugeot Talbot Sportでオデルの部下を務めていたデビッド・ラップワースは、このHorizonのステアリングを握った経験を持つたった2人のテストドライバーのうちのひとりだ。「300馬力前後のエンジンが軽量シャシーに搭載されているので、当然ながら直線は非常に速かったですね - もちろん、ターボラグによる加速の悪さは差し引かねばなりませんが。ともあれ、コーナーリング性能は興味深いものでした!」とラップワースは語っている。
このLotus Horizonプロジェクトは、当時新たにPeugeot Sportのボスに就任したばかりのジャン・トッドの目が届かない場所で秘密裏に進行していた。だが、結果的にこのプロジェクトはそれ以上前に進むことはなかった。なぜなら、トッドはPeugeot 205 T16をグループBに投入するという、より現実的でベターな構想を持っていたからだ。この構想にはオデルも反論できなかった。
4. Citroën BX 4TC
現代のWRCでCitroënが手にしている成功を踏まえると、このヴェルサイユに拠点を構えるチームがグループB時代に苦戦していた姿は想像しづらい。CitroënはXsara、C4、DS 3といった名車群とセバスチャン・ローブの組み合わせによって近年のWRCで大きな成功を収めてきたが、彼らのグループBマシン、BX 4TCは大失敗作だった。このマシンは豚並みの遅さだったのだ。さらに悪いことに、当時のCitroën首脳陣はBX 4TCの投入を決定するまで長期に渡り迷走を続けていた。グループB参戦に際しCitroënは数々のオプションを検討し、ツインエンジン仕様のVisaという突飛なアイディアも試されたが、紆余曲折の末、CitroënはBX 4TCのWRC投入を決定した。
BX 4TCはあまりに重く、未熟でパワー不足だった
当時のフランスではPeugeotのWRCでの成功によりラリーへの関心が高まっており、1986シーズン開幕戦モンテカルロでデビューしたCitroënに対するフランス国民からの期待も大きかった。しかし、Citroënの経営陣は開幕からわずか3戦を走ったのみでWRC撤退を決定した。BX 4TCはあまりに重く、未熟でパワー不足だったからだ。それから15年後、WRCに復帰したCitroënはようやくグループB時代の雪辱を果たすことになる。
5. Ferrari 308 GTB
Ferrari 308 GTBは1976年にグループBの前身であるグループ4のホモロゲーションを取得しており、生まれ故郷のイタリア北部で盛んなターマックラリーの常連マシンになっていた。1982シーズンのサンレモ・ラリーで地元プライベーターのアントニオ・トニャーナが序盤のターマックステージで当時のWRCトップクラス勢を差し置いて総合首位に立つ健闘を見せたが、その後のグラベルステージでは失速した。
グループB規定導入後も308 GTBは継続使用され、イタリアやフランスのラリーイベントでは相当数の308 GTBがエントリーした。ラリー仕様の308 GTBだけではもはや物足りないというマニアは、308 GT/Mをチェックしてもらいたい。308 GT/MはFerrari使いのラリー・エキスパートとして知られたジュリアーノ・ミシェロットというプライベート・チューナーが手がけたマシンだ(GT/Mの “M” はミシェロット=Michelottoの頭文字に由来)。
カムシャフトとタイミングベルトカバーを新造した結果、308 GT/Mは最大約375馬力を発生した。308 GT/Mは合計3台しか製作されていないが、1984シーズンのモンツァ・ラリーにこのマシンで出走したラファエル・ピントは、当時トップクラスの性能を誇っていたLancia 037勢(その中にはファクトリー仕様車も含まれていた)を抑えてラリー中盤まで総合首位に立ち、そのポテンシャルの片鱗を示した。尚、ピントはその後コースアウトしてサスペンションを破損したことで優勝を逃した。