Villeneuve & Pironi: The story of their tragic rivalry
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F1

ジルとディディエ:確執の果ての悲劇

F1・1982シーズン - Ferrariのジル・ヴィルヌーブとディディエ・ピローニの関係はある事件をきっかけに崩壊し、悲劇的な結末へ加速していった。
Written by James Roberts
読み終わるまで:8分Published on
スティーブン・スピルバーグがF1の1982シーズンをテーマにしたストーリーを用意したとしても、このシーズンのあの悲劇とドラマを語り切ることはできなかっただろう。
F1界を二分する政治的対立、危険なまでの高速化の道を進んでいったマシンなどに彩られたこのシーズンの中心には、ジル・ヴィルヌーブ対ディディエ・ピローニというF1史屈指の魅力だが不運なライバル関係が存在していた。
“これまでの僕たちの関係は良好だったし、ディディエを信頼していた - しかし、そんな愚かな過ちはもう二度と繰り返さない”
ジル・ヴィルヌーブ - 1982年サンマリノGP決勝後コメント

F1が野蛮なまでに高速化した時代

1982年を迎えるとターボの信頼性はいよいよ高まり、勝つためには不可欠なアイテムになりつつあった。またグラウンドエフェクト・デザイン(1970年代後半にLotusが先鞭をつけた、マシン底面全体を翼断面形状にすることで強大なダウンフォースを得る空力設計)が熟成した結果、サスペンションは極めて固いセッティングとなり、ダウンフォース発生量は天井知らずのレベルに達していた。よって、ドライバーが限界領域に達したのかどうかが理解できない危険なマシンがごく一般的な存在になっていた。
“ロングビーチやモナコなどの市街地サーキットではGフォース負荷が少ないため、マシンの危険性は忘れられるが、ブランズハッチやオーストリアなどの高速サーキットでは極めて危険だ。ましてやゾルダーでは一歩間違えれば大惨事になるかもしれない”
ジル・ヴィルヌーブ
1982シーズンのためにFerrariが投入したニューマシン126C2は前年型126CKが抱えていた信頼性の問題が改善されて全体的な進歩を遂げており、プレシーズンテストから好調だった。よって、マラネロが久々にコンストラクターズタイトルを奪還する可能性は非常に高いとされ、またドライバーズタイトルに関しても勢いのあるFerrariのデュオ - ヴィルヌーブとピローニ - のどちらかが手にするだろうという噂も高まっていた。
Villeneuve & Pironi: The story of their tragic rivalry

Ferrari 126CKに収まる1981年のピローニとヴィルヌーブ

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1982年頃になると、ジル・ヴィルヌーブはそれまでの英雄的なパフォーマンスの数々によって “生ける伝説” としてのステータスをすでに確立しており、Ferrariでのフルシーズン参戦は5年目を迎えていた。チャンピオン未経験ながら史上最速のドライバーと信じられ、ファンからの人気も絶大だったヴィルヌーブは、一戦一戦を全力で戦い抜く熱い姿勢を身上としていた。そのレース哲学は、長く語り継がれることになる1979年フランスGPでルネ・アルヌーと繰り広げたこの世のものとは思えないほど壮絶なバトルにも如実に表れている。
Gilles Villeneuve and René Arnoux duke it out at Dijon at the 1982 French Grand Prix

Villeneuve vs Arnoux

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一方、TyrellからデビューしてLigierで印象的なパフォーマンスを見せ、更には1978年のル・マン24時間でも優勝を果たしていたディディエ・ピローニは極めて順調にF1界のトップクラスへ上り詰めていた。1980年には総帥エンツォ・フェラーリ直々のオファーによってFerrariとの契約を交わしたピローニは、そのスムースで計算し尽くされたレーススタイルによって1982シーズンはタイトル有力候補のひとりと目されていた。
1982シーズンのF1は、政治的な論争と共に幕を開けた。開幕戦南アフリカでは新たなスーパーライセンス発給ルールを巡って統括団体(FIAおよびFISA)とドライバーたちが衝突し、ニキ・ラウダが先導する形でドライバーによるストライキへと発展した。また、続く第2戦ブラジルと第3戦ロングビーチ(US西GP)でも、マシン重量規定の解釈を巡りチーム間での意見が対立するという事態が発生した。
Villeneuve & Pironi: The story of their tragic rivalry

Ferrariを熱くドライブするヴィルヌーブはこの時代のヒーローだった

© Ferrari

イモラ:終わりの始まり

F1サーカスが第4戦サンマリノGPの舞台イモラに到着した時、ドライバーズチャンピオンシップ首位にはRenaultのアラン・プロストが立っていた。一方、開幕前から下馬評が高かったはずのFerrariは開幕3戦を無様な成績で終えていた。シーズン序盤のフライアウェイ3戦で、ピローニはわずか1ポイントを獲得するに留まり、ヴィルヌーブに至ってはUS西GPで3位に入ったものの失格処分の憂き目に遭い、依然ノーポイントのままだった。そして、イモラでも政治的対立は続いていく… 。
BrabhamとWilliamsが第2戦ブラジルで失格処分を受けたことに反発し、バーニー・エクレストンが主導するFormula One Constructors’ Association(FOCA:F1製造者協会)に所属する英国系チームの大半がサンマリノGPのボイコットを決行。この結果、イモラのスターティング・グリッドに並んだマシンはわずか14台だった。
しかし、“速いが脆い” Renaultのマシンを駆るアルヌー&プロストと、彼らへの逆襲を期するピローニ&ヴィルヌーブのFerrari勢という構図はイモラにティフォシの大観衆を集めた。彼らはFerrariが地元レースで勝利を挙げる栄光の瞬間を味わうことになるのだが、また同時に悲劇の種が萌芽する瞬間も目撃した。
Didier Pironi Ferrari

Ferrariのフィオラノ・テストコースでのディディエ・ピローニ

© Ferrari

プロストのRenaultエンジンが決勝レース6周目に異常を発生してストップすると、チームメイトのアルヌーが首位の座を譲り受け、レース前半はアルヌーのRenaultが首位を走る背後で、ピローニ&ヴィルヌーブのFerrari勢が互いを激しくプッシュし合いながら追いかけるという展開が続いた。
3人のフランス語圏ドライバーは手に汗握る接戦を繰り広げ、政治的な諍いに飽き飽きしていたファンにF1本来の魅力を再び思い起こさせた。
Villeneuve & Pironi: The story of their tragic rivalry

ピローニを後方から見つめるヴィルヌーブ

© Divulgação

しかし、44周目を迎える頃にはアルヌーのマシンがストップしており、Renault勢が全滅。Ferrariが独走の1-2態勢を得たことに地元の大観衆は歓喜した。ヴィルヌーブがピローニを従えて首位を走る。チームのハードワークが報われ、真紅のFerrari2台が大量ポイントを獲得しチャンピオン争いへ名乗りを上げるチャンスが遂に到来したのだ。中盤まで互いのスリップストリームを使いながら幾度となくポジションチェンジを繰り返してきた2人だったが、レースが大詰めを迎え、ポジションを確定すべきタイミングが訪れた。チームはピットボードを通じ、2人のドライバーに向けて『SLOW』というサインを掲示した。
ヴィルヌーブはこのサインを “互いに争わず現在の順位をキープせよ” というチームオーダーと理解したが、ピローニは違った。彼はファイナルラップのトサ・ヘアピンの手前でヴィルヌーブのスリップから抜け出して首位を奪ったのだ。
“『SLOW』サインが出たら、それは「このままのポジションをキープしろ」という意味だ。これは僕がFerrariに加入してから変わらない取り決めのはずだ”
ジル・ヴィルヌーブ
“『SLOW』サインは「クラッシュしないように注意しろ」という意味だ。必ずしもオーバーテイクを制限するものではないはずだ”
ディディエ・ピローニ
結局、レースはピローニが勝利した。ヴィルヌーブはひどく憤慨し、表彰台でもその怒りを隠そうとはしなかった。ヴィルヌーブは、ピローニがチームオーダーを無視したと信じて疑わなかったのだ。
“宣戦布告だ。これからは僕もやりたいようにやらせてもらう”
ジル・ヴィルヌーブ
Villeneuve & Pironi: The story of their tragic rivalry

ヴィルヌーブはピローニの裏切りに憤慨していた

© Ercole Colombo

ゾルダーでの悲劇

サンマリノの次戦は、ゾルダーで開催されるベルギーGPだった。土曜の予選終了10分前の時点ではピローニが暫定ポールに立っていたため、ピローニのタイムを上回るべく最後のアタックに出たヴィルヌーブは、テラーメンボフト・コーナー(サーキット後半部にある高速の右複合カーブ)でスロー走行しているヨッヘン・マスのMarchへ猛スピードで迫っていった。
この動きを見たマスはヴィルヌーブに進路を譲るため右へラインを変えたが、奇しくも同時にヴィルヌーブも右へ動いた。そして2台のホイールが接触した瞬間、ヴィルヌーブのFerrariは宙高く舞い上がった。マシンは地面に激しく叩きつけられたあと側転しながら粉々に破壊され、ドライバーの身体はコックピットから投げ出されてキャッチフェンスへ突っ込んでいった。
“ジルは亡くなる前週に幾度となく私に電話をかけてきたが、話していたのはピローニのことばかりだった。彼は信じられないほど激怒していた。あの事故が起こった瞬間、私にはその原因が理解できた”
アラン・プロスト
あの痛ましい事故から35年近くが経とうとする今も、ファンは「あの時、ヴィルヌーブは何故全てのリスクを冒してまで最後のアタックに出たのか」という疑問の答えを探し続けている。ピローニの裏切りへの怒りだったのか? それとも常に全身全霊でアタックするヴィルヌーブらしさを貫いた結果なのか?
ファンの多くはヴィルヌーブの怒りが彼自身を死に追いやったと信じている

ファンの多くはヴィルヌーブの怒りが彼自身を死に追いやったと信じている

© Press

そしてゾルダーでの悪夢の週末から3戦後のカナダGPも、レーススタートの時点で沈痛な空気に呑み込まれた。ピローニがスターティング・グリッド上でエンジンをストールさせ、これを避けきれなかったルーキーのリカルド・パレッティがピローニのマシン後部に猛スピードで激突し落命。1982シーズンにおける2人目の死亡事故が発生してしまったのだ。
ヨーロッパラウンドに戻ったピローニはチーム内で孤立しながらもチャンピオンシップ首位に立ち、タイトル獲得に向けてさらなる集中を高めていた。そして、ホッケンハイムで行われたドイツGPのピローニは、ドライコンディションだった金曜予選で暫定ポールポジションを獲得。しかし、翌土曜午前に豪雨の中で行われたフリープラクティスでアラン・プロストが乗るRenaultに高速で追突し、ゾルダーでのヴィルヌーブと奇妙なほど酷似したアクシデントを引き起こす。ピローニは一命こそ取りとめたものの両脚に粉砕骨折の重傷を負った。そして彼がF1に復帰する機会は二度と訪れなかった。
ほんの数ヶ月間で起きた考えられないほどの諍いやドラマ、そして悲劇により、F1史上最高として歴史に残るはずだったライバル関係は突如として終焉を迎えた。ディディエ・ピローニが目指したはずのフランス人初のF1ワールドチャンピオンは幻に終わり、ジル・ヴィルヌーブは世界中のファンの中で神に近い存在として扱われるようになった。