Seven-time champ Schumacher congratulates Vettel
© Paul Gilham/Getty Images
F1

ドイツ人F1ドライバー 歴代ベスト7

ドイツ人F1ドライバーたちはこれまで合計12回のチャンピオン・計175勝を獲得してきた。では、歴代最強のドイツ人F1ドライバーはいったい誰だろう?
Written by James W Roberts
読み終わるまで:12分公開日:
今となっては信じられないことだが、F1世界選手権創設から約45年間、1994シーズンまで、ドイツ人ワールドチャンピオンは存在しなかった。
ところが1994シーズン以降は、3人のドイツ人ドライバーが計12回のドライバーズチャンピオンシップを制覇し、4人のドイツ人ウイナー(1994年以前に勝利を記録したヴォルフガング・フォン・トリップスとヨッヘン・マスを加えれば6人)が誕生している。今やドイツは現代F1における最大勢力のひとつだ。
ミハエル・シューマッハが1994シーズンにドイツ人初のF1ワールドチャンピオンに輝いてから22シーズンが経過したが、この期間のドイツ人ドライバーによるタイトル獲得率は実に50%を超えている。
今年、2年ぶりにF1カレンダーへ復帰したドイツGPでは、レース後半に突如としてホッケンハイムを濡らした雨に足元をすくわれ、それまで首位を走行していたセバスチャン・ベッテルFerrari)が痛恨のクラッシュを喫し、2013シーズン以来となる母国GP優勝のチャンスとチャンピオンシップリードの両方を失った。
しかし、ベッテルがドイツ人ドライバーとして通算13回目のチャンピオンを獲得するチャンスはまだ十分残っている。
今回は、ドイツ人F1ドライバー歴代ベスト7をリストアップしてみた。

シュテファン・ベロフ

  • 在籍チーム:Tyrrell
  • 優勝回数:0(出走回数:20)
  • 参戦期間:1984年〜1985年
1985年スパで早すぎる死を迎えたシュテファン・ベロフ
1985年スパで早すぎる死を迎えたシュテファン・ベロフ
スパ・フランコルシャンで行われた耐久レース参戦中の事故死から30年以上が経過した今も、あらゆるタイプのマシンを乗りこなしたシュテファン・ベロフの能力はたびたびファンの間に議論と驚きをもたらし続けている。
ベロフのF1キャリアはわずか20戦に終わったが、彼はドイツ人初のF1ワールドチャンピオンになれる逸材と目されていた。
その根拠は、1983年にあの「緑の地獄green hell)」と恐れられたニュルブルクリンク・ノルドシュライフェで彼が6分11秒という当時歴代最速ラップを記録したことに尽きる。
1984シーズンの世界耐久選手権WEC)でワークスRothmans Porscheを駆ってチャンピオンに輝いたベロフは、ヘビーウェットに見舞われた同年のモナコGPでも非力なノンターボTyrrell決勝4位に導いてみせた。
ドイツのレーシングドライバーなら、誰でもシュテファン・ベロフを知っている
セバスチャン・ベッテル
1984年モナコGPであのセナを凌駕する速さを見せたベロフ
1984年モナコGPであのセナを凌駕する速さを見せたベロフ
1984シーズンのモナコGPが赤旗打ち切りにならなければ、このレースを制したアラン・プロストや2位に入ったアイルトン・セナをベロフが上回っていたであろうということは、彼のラップタイムが証明している。
また、スパ屈指の超高速コーナー、オー・ルージュジャッキー・イクスのPorscheに対して大胆にもアウトサイドからオーバーテイクを仕掛けようとしてベロフが命を落としたという事実は、全くの恐れ知らずと言われた生前のベロフへの評価を裏付けている。
あの悲劇のヒーロー、ジル・ヴィルヌーブと同様、彼は1980年代初期の極めて危険なレーシングカーを限界ギリギリでドライブしていたのだ。
私がこれまで見てきた中で、ベロフは最も優れた才能だ
ジャッキー・スチュワート
モータースポーツの世界には「たられば」の議論が数限りなく存在するが、ベロフはその最たるケースだろう。
1986シーズンからのFerrari加入が内定済みだったベロフは、命を落とさなければセナプロストナイジェル・マンセルといった強豪たちを相手にする時間を十分得ていたはずで、ミハエル・シューマッハの代わりに史上初のドイツ人F1ワールドチャンピオンになっていた可能性も考えられる

ミハエル・シューマッハ

  • 在籍チーム:Jordan / Benetton / Ferrari / Mercedes
  • 優勝回数:91
  • 参戦期間:1991年〜2006年 / 2010年〜2012年
1995年ベルギーGP表彰台でのミハエル・シューマッハ
1995年ベルギーGP表彰台でのミハエル・シューマッハ
統計上では、ミハエル・シューマッハがF1に残した記録はまさしく史上最高と呼べるものだ。
誰もがシューマッハをF1のGOATGreatest Of All Time)として讃えている。
タイトル獲得7回は、ベッテルやルイス・ハミルトンといった現代のドライバーでも更新が難しい大記録だ。しかし、その数字の裏で忘れられがちなのは、シューマッハがいかに速く、いかに計算高く、いかに強い意志を持ったドライバーだったのかという事実だ。
モナコGPでは通算5勝を記録したミハエル
モナコGPでは通算5勝を記録したミハエル
1994シーズンに起きたアイルトン・セナの突然の事故死により、世界は1980年代後半〜1990年代初頭のF1を席巻した偉大なブラジル人とその王座を狙う新進気鋭のドイツ人による世紀の対決を目撃するチャンスを奪われた。
この結果、総合的な戦闘力に劣るはずのBenetton Fordをドライブしていたシューマッハは、目覚ましい速さと呵責ないレース戦略の数々によって1994シーズンと1995シーズンのドライバーズタイトルを連覇した。
1996シーズンにFerrariへ移籍したシューマッハは、2000シーズンにマラネロにとって21年ぶりとなるチャンピオンを獲得。2006シーズンに一度現役引退を表明するまで、シューマッハはFerrariに5回のドライバーズタイトルと6回のコンストラクターズタイトルをもたらした。
シューマッハを超えるドライバーは現れるのだろうか?

ニコ・ロズベルグ

  • 在籍チーム:Williams / Mercedes
  • 優勝回数:23
  • 参戦期間:2006年〜2016年
ニコ・ロズベルグ
ニコ・ロズベルグ
1982シーズンのワールドチャンピオン、ケケ・ロズベルグの息子ニコは、2016シーズンをクレバーに戦ってタイトルを獲得した直後、タイトルを防衛することなくそのまま現役を引退した
父ケケ・ロズベルグと幼き日のニコ少年
父ケケ・ロズベルグと幼き日のニコ少年
WilliamsでのF1デビュー後数シーズンのロズベルグの成績は堅実だった。表彰台を数回獲得し、ポイント圏内の常連となった彼は、単なる「ケケの息子」以上の存在であることを示した。
Mercedesに加入した2010シーズン以降、ニコは今のMercedesの圧倒的強さの基盤の構築に力を貸した。当時のチームメイトは現役復帰したばかりのミハエル・シューマッハだったが、ニコのリザルトはワールドチャンピオンを7回も獲得しているベテランのそれを大きく引き離すものだった。
2016シーズン、ニコはついにチームメイトのルイス・ハミルトンを倒し、悲願のワールドチャンピオンを手にし、ワールドチャンピオンのトロフィーをキャビネットに収めた直後のタイミングでF1キャリアに終止符を打つ決断を下した 。
この決断は、他の多くのチャンピオンたちとは異なり、彼がキャリア晩年をグリッド後方での争いに費やして名声を傷つけることがないことを意味している。

セバスチャン・ベッテル

  • 在籍チーム:BMW Sauber / Toro Rosso / Red Bull Racing / Ferrari
  • 優勝回数:50
  • 参戦期間:2007年〜現在
Red Bull Racing在籍時に4連覇を達成したセバスチャン・ベッテル
Red Bull Racing在籍時に4連覇を達成したセバスチャン・ベッテル
2008シーズンのイタリアGPで当時21歳のセバスチャン・ベッテルToro Rossoのマシンで初優勝を果たした瞬間、F1にベッテル時代が到来し、このヘッペンハイム出身の若者は急速にドイツを代表するドライバーへと成長していった。
ベイビー・シューミー” とも呼ばれたベッテルは、2009シーズンにRed Bull Racingへ移籍すると、ミハエル・シューマッハを彷彿とさせる容赦のないサーキット上でのスキルを発揮。
2010シーズンに史上最年少でワールドチャンピオンに輝くと、その後2013シーズンまでタイトル4連覇を達成した。 
ベッテルとミハエルのタイトル獲得数を合計すると11に達する
ベッテルとミハエルのタイトル獲得数を合計すると11に達する
「ベッテルは最前列からスタートするレースでなければ勝てない」と揶揄する声も聞かれるが、2012シーズン最終戦ブラジルGP1周目で接触に巻き込まれたあとに見せたベッテルの目覚しいリカバリーを思い起こすべきだ。
現在、ベッテルは打倒Mercedesに執念を燃やすFerrariのエースに抜擢されており、あのプロストやニキ・ラウダに引けを取らない知性とスピードのハイレベルなコンビネーションで大きな存在感を放っている。

ハインツ=ハラルド・フレンツェン

  • 在籍チーム:Sauber / Williams / Jordan / Prost / Arrows
  • 優勝回数:3
  • 参戦期間:1994年〜2003年
2003年Sauberで現役を終えたフレンツェン
2003年Sauberで現役を終えたフレンツェン
ミハエル・シューマッハと同じく、Mercedesスポーツカー・プログラム出身のハインツ=ハラルド・フレンツェンは1994シーズンにSauberからF1デビューを果たした。同年5月のセナの事故死で空席となったWilliamsのシートに収まるプランも実現寸前だったと言われている。
しかし、義理堅い性格のフレンツェンはSauberに残留し、1997シーズンになってようやくWilliams移籍が実現した。しかし、この移籍は「正しいタイミングで正しい場所にいなかった」ケースの典型となった。
ハインツ=ハラルド・フレンツェンは幸運と不運の両方を備えた男です
マレー・ウォーカー(元BBC / ITV F1実況アナウンサー)
1997シーズンのドライバーズタイトルを獲得したチームメイトのジャック・ヴィルヌーブが、シーズンを通してフレンツェンを圧倒。そして、翌1998シーズンにWilliamsがパワフルなRenault V10エンジンを失うと、非力なMechachromeエンジンと共にフレンツェンはさらなる苦汁をなめることになった。
しかし、1999シーズンにJordanへ移籍したフレンツェンは予想外の復活を遂げる。
フレンツェン加入時のWilliamsはすでに低迷期に入りつつあった
フレンツェン加入時のWilliamsはすでに低迷期に入りつつあった
雨天で荒れたフランスGP、そしてミカ・ハッキネン(当時McLaren)が首位走行中にまさかのスピンを喫したイタリアGPで2勝を挙げ、さらに表彰台4回・ポイント獲得6回を記録したフレンツェンは、キャリアベストとなるチャンピオンシップ総合3位で1999シーズンを終えた。

ヴォルフガング・フォン・トリップス

  • 在籍チーム:Ferrari / Porsche / Scuderia Centro Sud
  • 優勝回数:2
  • 参戦期間:1956年〜1961年
ドイツ帝国伯の血筋を引くヴォルフガング・フォン・トリップス
ドイツ帝国伯の血筋を引くヴォルフガング・フォン・トリップス
ドイツ帝国伯の御曹司だったヴォルフガング・フォン・トリップスは、1961年に戦後GP史上初のドイツ人ウイナーとなり、同シーズンに彼がドイツ人として史上初のワールドチャンピオンに輝く可能性は極めて高いと考えられていた。
髪をオールバックにした恐れ知らずのドライバーたちが死と隣り合わせのレースを戦っていた1950年代、当時のドイツを代表するレーシングドライバーとして台頭したフォン・トリップスは、スターリング・モスグレアム・ヒルといった強豪たちを向こうに回して丁々発止のバトルを繰り広げていた。
1961シーズン当時のイタリアGPは、モンツァ本来のバンク付きオーバルコースを組み合わせた超高速型レイアウトで開催されたが、これまでシーズン2勝を挙げていたフォン・トリップスは選手権首位に立っていた。
Ferrariをドライブするフォン・トリップスがもしこのイタリアGPを勝てば、F1ドライバーズチャンピオンのトロフィーが初めてドイツに渡るはずだった。
しかし、残念なことに、運命はフォン・トリップスが思い描いた通りにはならなかった。
事故は明日にも起きるかもしれない。それがレーシングドライバー稼業の宿命だ。明日のことなど誰にも分からない
ヴォルフガング・フォン・トリップス
1961シーズンのイタリアGP決勝2周目、“シャークノーズ” の異名をとったFerrari 156F1を駆るフォン・トリップスは、約240km/h以上で走行中にジム・クラーク駆るLotusとホイールが接触。
その刹那に宙を舞ったフォン・トリップスのFerrariは、ティフォシが埋め尽くす観客席へ向かってそのまま突っ込んでしまう。
このアクシデントにより、フォン・トリップスは15名の観客と共に絶命した
しかし、驚くべきことに、レースが中断されることは一切なかった。これは当時のF1がいかに残酷なスポーツだったかを示す証左だ。
最終的には、フォン・トリップスのチームメイトだった米国人ドライバー、フィル・ヒルがこのレースを優勝し、たった1ポイント差で1961シーズンのドライバーズタイトルを獲得。Ferrariに初のコンストラクターズタイトルをもたらした。

ラルフ・シューマッハ

  • 在籍チーム:Jordan / Williams / Toyota
  • 優勝回数:6
  • 参戦期間:1997年〜2007年
2001年オーストラリアGPでのラルフ・シューマッハ
2001年オーストラリアGPでのラルフ・シューマッハ
ミハエル・シューマッハを兄に持つラルフは、1997シーズンのデビュー直後からシューマッハ家に流れる優れたレーシングの血筋を見せつけた。
Jordanからデビューしたラルフはわずか3戦目で初表彰台を獲得したが、1999シーズンには競争力が頭打ちになりつつあったJordanを離れて低迷期のWilliamsに移籍すると、デビュー当初の輝きは次第に失われていった。
ラルフは、好調時はトップクラス(高い評価を受けていた当時のチームメイト、ファン・パブロ・モントーヤを含む)に劣らぬ速さを見せていた一方、ハイスピードでの判断能力に欠けがちで、アクシデントに巻き込まれる機会も多かった。
しかし、2001シーズンから2003シーズンにかけてBMWエンジンと共に復調したWilliamsで6勝を記録すると、2005シーズンからは豊富な資金を抱えるToyotaへ移籍した。
不振のToyotaでの3シーズンは、さらに上を目指せていたはずの彼のキャリアにダメージを与えたと言える。
しかし、ファンの記憶には強い印象を残せていないものの、ラルフはドイツ人F1ドライバー7傑にランクインできるだけの実績は残していると言えるだろう。