スケートボード

山本海人というオトコの半生

© Nahoko Suzuki
Written by Hisanori Kato
東京の一等地にトレーラーハウスとスケートプールが隣接したコミニケーションスペース〝SONOFTHECHEESE(サノバチーズ)〟を誕生させたことで注目を集め、後に同名のアパレルブランドを展開。更にはグリルドサンドのお店〝BUY ME STAND(バイミースタンド)〟をオープン。多方面で活躍するクリエイター、山本海人氏の半生をお届けする。
固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この連載では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どんなライフスタイルをおくっているのかにフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自身の生活にフィードバック出来れば、きっと人生はもっと豊かになるはずだ。第七回目は〝SONOFTHECHEESE〟そして〝BUY ME STAND〟主宰の山本海人氏に迫る。
山本海人というオトコの半生
山本海人というオトコの半生

“モテたい”から始まった 自分の為のスケートライフ

まずは海人さんの生まれから教えて下さい。
海人 生まれたのは渋谷区富ヶ谷です。中学生の頃に世田谷に移って、学校は吉祥寺にある明星学園ってところに通ってました。
一番初めにスケートボードを乗り始めたのはいつ頃ですか?
海人 14歳の頃ですね。
きっかけは何だったんですか?
海人 友達と遊んでる時に偶然、道端に落ちてるデッキを拾ったんです。
それはどういったものですか?
海人 ブランド名は覚えてないですが、ハンマーヘッドが特徴のオールドシェイプの板です。当時は既に普通のシェイプの板が出回っていたんですが、お金がなかったので買えなくて。なのでそのオールドデッキに乗って遊んでました。かなり時代錯誤ですよね(笑)。
一番初めに自分のお金で買ったデッキは覚えてますか?
海人 15歳の時です。今も原宿にあるスケートショップのホークで買ったジョバンテ・ターナーの板。カタカナで“ジョバンテ”って描いてあるデザインでした。トラックはベンチャーだったかな。
当時は、どういったところでスケートをしてたんですか?
海人 学校が吉祥寺だったのでマンスケ橋ってところや駅のロータリーが多かったです。今でこそ西東京には、インスタントやMYGハウスとか、色々な(スケート)パークが出来てますが、僕らがいた頃ってそういったところが無かったんですよ。
そもそも、海人さんがスケートボードにのめり込むきっかけは何だったんですか?
海人 ちょうどその頃(中学2年)に映画「KIDS」(※ラリー・クラークが監督した1995年公開の青春映画)が公開されたんです。それがあまりにも衝撃的で。それで中3の頃にNYに連れて行ってもらってシュプリームでパーカやデッキを買ってもらいました。その時にシュプリームで買った板は、高校に乗って行ったら1日でパクられちゃいましたけど。この頃ってシュプリームやズーヨーク、DCとかがすごく流行りましたよね。いわゆる、最近再注目されている“90年代リバイバル”のど真ん中のころというか。
今までこの連載で取材させていただいた方々だと、パブリックドメイン(パウエルが1988年にリリースしたスケートビデオの金字塔)と聞くことが多かったんですが、海人さんは映画「KIDS」。世代の違いを感じます。
海人 そうですね。世代が10個くらい違いますもんね。それに他の方々はスケートボードと本気で向き合っていたり、それが仕事になってる方達。僕の場合は、もう少し遊びの要素が強いというか、のめり込む一番大きなきっかけが“女の子にモテたい”ってことだったので(笑)。
海人さんの中でスケーターのヒーローっているんですか?
海人 やっぱり「KIDS」に出演していたキャスパー役の“ジャスティン・ピアース”ですかね。でも当時は、あの役者の名前がジャスティン・ピアースだって知らなかったですけどね。
「あのキャスパー役の奴かっこいいな」みたいな?
海人 そうそう。当時はネットとかもなかったから、そこまで名前とかをディグったりしなかった。そもそも僕は、人のことにあまり興味がないんですよ(笑)。“「どこどこのパークで、誰々が何々をやった」だとか、「どこどこに所属している何々ってライダーが」みたいなウンチクにあんまり興味がないっすね。だから、そういったスケートの知識はあまり知らないんですよ。
なるほど、意外ですね。
海人 これはスケートのことだけに限らずですが、〝なんでも知ってる〟が〝すごい〟ってことにはならないんじゃないかなって思うんですよ。知識がある人だけが凄いんじゃなくて、知識はないかもしれないけど、その“好きさ”はその人たちと変わりませんよ、みたいな。俺はどちらかといえば後者だと思います。要は何が言いたいかっていうと、俺はスケートボードで有名になりたいだとか、プロになりたいだとかは思ったことが無くて、ただ、好きだから自分の為にこっそりやっているだけ。でも、スケートボードは大好きなんですよっていうか。

18歳からの5年間を過ごしたシアトルでの貧乏生活

10代の頃は海外にも行かれてたんですよね?
海人 はい。日本の大学に興味がなくて、18歳から23歳までの5年間、シアトルに行ってました。帰国するまでの5年間、ずっと寿司屋でバイトしてましたよ。
なぜ寿司屋だったんですか?
海人 決して寿司職人を目指してたわけじゃないです。日本人が働ける環境がそういうところしかなかったってだけです。ちなみに僕が働いてたのは〝テクノ寿司〟ってところ。
〝テクノ寿司〟って何ですか?
海人 クラブっぽい寿司屋でブラックライトが当たるとイカが光るみたいな。完全にふざけてますよね。
面白いですね。いまでもあるんですか?
海人 あるんじゃないですかね。
なぜサンフランシスコやニューヨークではなく、シアトルに行ったんですか?
海人 知り合いがいたからです。その人の家に転がり込んでいました。
アメリカ生活から学んだことで、今の糧となることはありますか?
海人 あんまりないかもですね。一番の思い出は、初日にすごい差別を受けたことかな。あれは今でも鮮明に覚えてます。街をスケボーで走ってたら黒人におもいっきりコーラをかけられたんです。治安があんまりよくなかったですし、外国人に対しての差別が激しかった気がしますね。俺もまだ若くて尖ってた感じもあったので、自分の態度が悪かったってこともあるんでしょうけど(笑)。
向こうでは、どういった生活をしてたんですか? スケボーとかは?
海人 シアトルは雨が多い街なので、あまり出来なかったですね。生活は、寿司屋のバイトが時給4ドルとかだったので、とにかく貧乏でした。よく教会の炊き出しに並んで、タダ飯を食べさせてもらってましたよ。そんな生活が続いてたので、楽しいってよりも早く日本に帰りたいなって思ってました。でも帰るお金が無かったので、ズルズルと5年いることになっちゃって。
あまりアメリカでの良い思い出はないってことですか?
海人 そうかもしれないですね(笑)。日本が嫌でアメリカに行くんですが、結局はアメリカが嫌で日本に帰ってくるみたいな。がんじがらめな状態。
どのタイミングで帰国したんですか?
海人 9.11のテロのタイミングです。あの頃ってアメリカに滞在中の外国人が住みにくい環境になってたんですよ。
なるほど。少し話がずれますが、噂では海人さんのお父さんはピンクドラゴン(1980年代にロカビリーブームを牽引した原宿の伝説的なショップ)の関係者だとお聞きしたんですが。
海人 そうですよ。ピンクドラゴンの周りで働いていて、キングコングって飲み屋をやってたんです。若いスタッフが何人かいて、お客におごってもらうってスタイルのバーだったんです。大雑把な言い方だと、安っぽいホストクラブみたいな。
お父さんからの影響で、ロカビリーなどの音楽にハマったりしなかったんですか?
海人 音楽はなんでも聞きますけど、親から影響されたことはないですね。むしろ、当時は反発してたから聞かなかったかな。俺の場合は、中学の頃にスキンヘッドにして銀縁のメガネとかをかけて、どちらかといえばB系によせてたんです。それでピンクドラゴンで働いてる親父の友達が家に遊びに来た時に「なんだそれ?」って頭を思いっきり叩かれた記憶があります。そんな感じで若い頃はみんな親に反発するじゃないですか。でも今は、俺自身がバーを始めたりもしたので、気づくと自分もオヤジみたいなことをやってるんですよね。結局、そういうもんじゃないですか。
山本海人というオトコの半生
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都内でのトレーラー生活が注目を集め、マルチに活躍するディレクターへ成長

目黒にトレーラーハウスとプールが隣接するコンセプトスペースを出したのは、いつ頃ですか?
海人 あれは27歳の時です。そこから2年くらいして、メディアで紹介されるようになりました。
そもそも、なぜトレーラーハウスに住もうと思ったんですか?
海人 単純に安いからです。当時は本当にお金がなかったので。
都内の一等地でトレーラーハウスに住むって、かなりブルジョアな感じがしますけど。
海人 いやいや、そんなことないです。月8万で住めますよ。
そんなに安いんですか?
海人 トレーラーが110万。でも、自動車ローンを組めば100回ローンで月に1万。土地代が7万だったので合計で月に8万円です。しかもトレーラーハウスっていらなくなったら、必ず最後は三分の一の値段で買い取ってくれるんですよ。超合理的。夏は地獄みたいに暑いですけど。
その時は既にプールも隣接してたんですか?
海人 ありましたね。世田谷公園で滑っていたスケーターたちや新大久保のゲトー(※ザ・ゲトー:かつてのラブホテルを改装した建物にスケートランプ、ショップ、ギャラリーなどが入って運営された新大久保のカルチャー施設。今は存在しない)って場所の友人たちに手伝ってもらって作りました。だから最初はそういった人たちしかいなかったんですよ。元々、あまり人が多いところでスケボーで遊ぶのが好きじゃないので、限られた人しか来れない招待制スペースみたいな形にして遊んでました。
山本海人というオトコの半生
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“大人の秘密基地”みたいな感じでってことですね。そんな招待制スペースを様々な人に解放するコミニケーションスペースとして打ち出していったのはなぜですか?
海人 そのコミニケーションスペースってのは、完全に後付けっすね。メディアの人たちがそういった表現を使って広めてくれた感じです。
山本海人というオトコの半生
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そうなんですね。あのスペースが出来た頃って、かなり多くのメディアで紹介されていましたが、その経緯みたいなものを教えてください。
海人 当時は俺、ダスキンで働いてたんですよ。それでバイトに行ってる時にみんなが家にいて。疲れて帰ってきてもいるんですよ。それがだんだん嫌になってきて。だからプールに水をいれてスケボーが出来ない状態にしたんです。嫌な奴っすよね(笑)。ちょうどその頃、横にあるホテル・クラスカの代理店で働く人の結婚式があったんです。そこに遊びに来ていた人たちが、僕の住んでる場所の話を聞いたみたいで、帰りにフラッと遊びに来たんです。カメラマンやスタイリストとか、そういったファッション業界の人たち。彼らがすごく気に入ってくれて、次の日に速攻、「撮影場所として貸してくれない?」って連絡が来たんです。そこから徐々に撮影スタジオとして広まっていったんです。そしたら生活もすごく楽になっていって、バイトをしなくても食べれるようになっていきました。一時期は、飲み放題時間無制限で3000円プール付きのBBQスペースとしても貸したりしてたんですよ。そんなことをしてるうちに雑誌やSNSでどんどん広まって、交友関係も広がっていきました。
そこからアパレルブランドを始めて行ったんですよね。
海人 そうですね。それでお金が少しずつ溜まっていったので初めはTシャツを作って、そこからパンツやアウターを作って、いつの間にかアパレルブランドに成長していったって感じです。
成り行きでアパレルブランドが誕生したんですか?
海人 いや、ちゃんと構想はありましたよ。トレーラーハウスに住み始めた頃にサンドイッチ屋を始めたかったんですよ。僕の理想としては、サンドイッチ屋を始めて、そこで働いてるスタッフのユニフォームがものすごくカッコよくてクオリティが高い。それをスーベニア(お土産)のような感覚で売るっていうのがブランドのコンセプトとしてあったんです。だけど、許可の問題とかで、なかなかサンドイッチ屋をスタートすることができなくて、アパレルブランドが最初になってしまいました。思い描いていた理想と全く逆ですね(笑)。
そもそもなぜ、サンドイッチ屋をやりたかったんですか?
海人 アメリカだと普通の家庭料理だけど、日本に美味しいグリルドチーズサンドのお店ってないじゃないですか。あったとしても大抵マズイ。美味しいグリルドチーズサンドを毎日食べたかったし、日本にも普及したかったってことが前提にあります。
今後の夢などはありますか?
海人 今は渋谷店と韓国と横浜の3店舗。これからどんどん増やしていくつもりです。50店舗まで増やしたいですね。
山本海人というオトコの半生
山本海人というオトコの半生
どこまでもおっとりとした独特の語り口が特徴の山本海人氏。そのゆるくサラリとした印象とは裏腹に、しっかりと将来を見据えた独特のヴィジョンがあった。そんな海人氏のこれからの夢は、“常に面白いアイディアで駆け抜けるスケーター・山本海人の夢”でお届けする。
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