YOPPI
© Hikaru Funyu
スケートボード

江川“YOPPI”芳文というオトコの半生

“YOPPI”の愛称で親しまれる江川芳文(えがわよしふみ)は、スケートシーンだけでなくファッション界でも注目度の高い存在。ここでは、90年代以降の日本で様々なムーブメントを巻き起こしてきたYOPPIの半生をお伝えする。
Written by Hisanori Kato
読み終わるまで:9分公開日:
YOPPI

江川“YOPPI”芳文

© Hikaru Funyu

固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この記事では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どういったライフスタイルをおくっているのかにフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自分の生活にフィードバックできれば、きっと人生はもっと豊かになるはずだ。
第二弾となる今回は、スケーターの江川“YOPPI”芳文に迫る。シーンの絶対的なキーマンのひとりとも言えるオトコが辿った10代、20代、30代のターニングポイントを振り返ることで、その人物像に迫っていきたい。
・インタビューの後半は【こちら
まずは、江川さんとスケートボードとの出会いから教えて下さい。
江川“YOPPI”芳文(以下:YOPPI) 13歳の頃です。
きっかけは何だったんですか?
YOPPI 当時、周りにいたサーファーの先輩たちが輝いて見えたんです。特にその中の一人が彼女にサーフボードのケースを手作りしてもらってるのを見て「あ~、羨ましいな」って思って。それでマルイ(大型商業施設)のサーフ館みたいなところへサーフボードを買いに行ったんです。ただ、中学生にはとても手の届かない値段だったので予約だけしてバックれちゃいました(笑)。それで、「サーフィンをやるなら、まずはその練習としてスケートからでしょ!」って都合のいいように解釈してムラサキスポーツでシュガーというブランドのコンプリートデッキを買ったのが最初です。だから、僕のスケートのきっかけは、凄く不純な動機だったんですよ(笑)。
そこからスケートにのめり込んでいったんですか?
YOPPI その頃は道端でプッシュをして遊ぶ程度。ガッツリ滑るようになったのは15歳の時ですね。もっと本格的な板が欲しくなって原宿のストーミーに行ったんです。そこで価値観の合う様々な友人ができて、ストーミーに入り浸るようになりました。僕の本格的なスケート人生は、そこから始まったんだと思います。中学の授業が終わると毎日のように小田急線で原宿まで出て、ストーミーに溜まってましたね。そこに行けば必ず誰かしらがいたし、皆んなとワイワイしながら海外のスケートビデオを観てました。休日になると、ストーミーに置いてあるジャンプランプをホコ天(原宿の歩行者天国)まで運んでスケートをするのが日課でした。学校の友達と遊ぶことよりも、原宿で出会ったスケーターと遊ぶことの方が何倍も楽しかったですね。
©︎Yoshiro Higai
その頃は、海外の大きな大会にも出場されていたと聞いたことがあります。
YOPPI スケートボードを持って一人旅のようなことをしてたんです。当時は、今と違って向こうの大会に出場するのが大変で、(スケートカンパニーの)スポンサーが付いてないと出場出来なかったんですよ。僕の場合はたまたまの縁でライダーを探してる現地の人と出会ったんです。その人が手を差し伸べてくれたおかげで《サンノゼスケートボーディング》や《スランダー》っていうカンパニーのスポンサードを受けることができて大会にも出ることができました。一番記憶に残っているのは、アキ秋山さんに連れて行ってもらった、サバンナ・スラマー3って大会(89年にジョージア州で開催された世界最大規模のSK8大会)。その時の模様がスラッシャーマガジンでも紹介されて僕の名前も載ったんですよ。食い入る様に見ていた憧れの雑誌だったので凄く嬉しかったのを覚えてます。
T19 "The Presence" (Yoshifumi Egawa)
江川さんのこれまでの活動を紐解く上で、東京を代表するスケートボード集団のT19は大切な要素ですよね。当時はどういった存在だったんですか?
YOPPI T19は、大瀧さん(大瀧ひろし)、スケシンさん(SKATETHING)、ミノさん(三野タツヤ)、ニーヤン(ニヘイヒサガス)、ヤマちゃん(山田テツヤ)たちが84年に始めた東京のスケートチームです。得体のしれないスケートライフを満喫している人たちで“なんだこの人たちは?”って憧れの眼差しで見てました。それにトリックはもちろん、スタイルや服装と全てがかっこ良かった。ホコ天にいたスケーターからしてみれば、憧れの先輩を通り越して、も~雲の上の存在。恐れ多くて気軽に話しかけられなかったですね。
どういった経緯で加入することになったんですか?
YOPPI ある日、アメリカのスポンサーをもらうのに疲れた僕に大瀧さん(T19主宰)が「ウチにこいよ!」って声をかけてくれたんです。それ以来、T19の一員として色々な大会に出たり、ビデオに出させてもらって。毎日、本気でスケートばかりしてましたね。
80年代のホコ天といえば、スケーターに限らず様々な著名人を輩出したスポットですよね。他にはどういった方と交流があったんですか?
YOPPI ひとみ(ミルクボーイの大川ひとみ)さんやヒロシ(藤原ヒロシ)さん、ジョニオくん(アンダーカバー デザイナー)といった人たちもいましたよ。自分が後にアパレルの世界へ入っていくきっかけにもなった人たちです。
ヘクティクを始めたのはまだ20歳そこそこの頃。生意気盛りでしたよ(笑)
江川“YOPPI”芳文
江川さんといえば、90年代~ゼロ年代に“裏原ブーム”の火付け役ともなった伝説的なブランド、《ヘクティク》の存在も大きいですよね。当時多くのヘッズが熱狂したこのブランドは、何歳の頃に始めたんですか?
YOPPI マガラ(現:A-1 CLOTHINGディレクターの真柄尚武)さんから誘ってもらって、22歳の時に二人で始めました。
元々はセレクトショップとしてスタートしたんですよね?
YOPPI そうです。15歳から22歳の間に何度もアメリカへ行って思ったことが、“アメリカには普通にあるものが日本にはない”、“これが日本で気軽に買えたらいいのに”って疑問でした。それをセレクトショップという形で解決していた感じです。月二回くらいのペースで買い付けに行ってましたね。
お店のコンセプトとかはあったんですか?
YOPPI コンテスト会場にいるスケーターやフォロワーの子達が“着ているであろう”、“興味があるであろう”アイテムをセレクトしてました。例えば、今でこそ色々なブランドからSBライン(スケートボードに特化した仕様のスニーカー)がリリースされていますが、当時のスケシューといえば《ヴァンズ》くらいでした。でも実際には、《アディダス》や《ナイキ》にもスケートボードに使えるかっこいいスニーカーが沢山あったんですよ。それを僕たちの目線でセレクトしていましたね。当時はそういったお店があまりなかったので色々な人に興味を持ってもらえたんだと思います。それでお店が軌道に乗り始めたら、それだけでは物足りず、ショップと同名のオリジナルブランドをスタートさせたんです。
当時の《ヘクティク》は、ファッションシーンの話題を席巻するひとつの社会現象でしたよね。開店前のヘクティクに長蛇の列が出来ていましたし、凄まじい盛り上がりでした。その時はどういった心境だったんですか?
YOPPI まだ20歳そこそこの若造だったので何が何だか分からない状態。生意気盛り!(笑)。それにもの凄く働いてましたよ。好きで始めたことなのにストレスで嫌になるくらい(笑)。
YOPPI

yoppi 1st ph-C

© Hikaru Funyu

30代の前半って、積んだ経験をアウトプットしやすい年齢だと思う。
江川“YOPPI”芳文
Neon Boys
ゼロ年代には空前のピストムーブメントが到来しました。その中心的な存在だったのが浅草のメッセンジャーや江川さんたちT19でしたよね。
YOPPI あの頃は本当に頭の中が競輪フレームのことしかなかったですから(笑)。夢中になりすぎて、2007年には《カーニバルトウキョウ》という自転車ショップを始めました。
なぜ自転車ショップをオープンしようと?
YOPPI ひとつは、自転車好きが溜まれるような場所が作りたくて。もうひとつは、あくまでも僕の主観ですが、日本の自転車屋って、どこか閉鎖的というか敷居が高いイメージがあったんです。“ロードバイクに詳しくないと相手にされない、お店にも入りづらい”みたいな……。もっと、スケートショップのような感覚で気軽に入れる自転車屋が欲しかったんです。
その頃はおいくつだったんですか?
YOPPI 32歳です。
30代ってひとつの大きな分岐点ですよね。
YOPPI 30代の前半って一番勢いがあってアブラが乗っている年齢だと思うんです。それなりに人生の経験値も上がってきているので、10代や20代で積んだ経験をアウトプットしやすい年齢でもある。今思い返せば、T19は先輩たちが始めたクルーに参加させてもらって、《ヘクティク》はマガラさんの誘いに乗っからせてもらった感じ。自分の意志で一人チャレンジしたのは、《カーニバルトウキョウ》が最初なんです。残念ながら今は無くなってしまいましたが、後悔はしてません。貯金をはたいてやっただけの経験と面白い体験をできたので充分に元が取れたかなって思ってます(笑)。
こうして江川“YOPPI”芳文の半生を振り返ってみると、東京の伝説的なスケートボードクルーの一員として活躍した10代。そして、社会現象にもなった人気ブランドを始動させた20代。さらに、東京の新たなムーブメントともなったピストカルチャーを牽引した30代と、人生の節目ごとに大きなムーブメントを起こし続けている。そんな江川氏は来月で45歳を迎える。そして、今から遡ること約10年前にまたひとつの大きなターニングポイントに対面していた。それが人生最大の転機とも言える、実子の誕生だ。父親となったことで彼のマインド、クリエイティビティはどう変化していくのか。現在の江川氏の活動は、記事「 東京最先端を生きるスケーター、江川芳文の今を追うでお届けしたい。