“ゾーンに入る” とは近年のスポーツシーンで注目を集めている精神状態である。グランドスラム達成経験を持つプロテニス選手から10kmランデビューを控えているアマチュアランナーまでを含むあらゆるアスリートが何とかして手に入れようとしている。
スポーツとの完全な融和を実現するこの精神状態は1975年にハンガリー系米国人の心理学者ミハイ・チクセントミハイによって “フロー” と名付けられた。チクセントミハイは、人間は何かのタスクに100%集中している時に最もクリエイティブになり、最も生産的になり、最も幸福になるということを発見した。
競技場やジムのトレッドミルでまだフローを得たことがないという人も、人生のいくつかの瞬間でこれを得ている。
何かに集中していて気が付いたら「こんな時間になっていた」経験や本をむさぼり読んだ経験、Netflixのロングシリーズを気が付かずに最後まで視聴した経験、仕事のプロジェクトに熱中した経験などは誰にでもあるだろう。
フロー最大のメリットは、生産的になれるだけでなく、幸福にもなれるところにある。
チクセントミハイの言葉を借りれば、フローとは「非常に楽しいので、リスクが大きくてもひたすら続けたいと思ってしまう状態」だ。トム・エヴァンスのようなウルトラランナーが肉体を酷使する100マイルウルトラマラソンに参加したり、冒険家がエベレストの頂上を目指したりするのはこれが理由だ。
我々がなぜ、そしてどのようにフローを得ているのかについてはまだ正確に理解されていないが、この精神状態は獲得がとても難しく、すぐに “逃げて” しまうことは良く知られている。そこで今回は、フローを得やすくするためのヒントを集めて紹介しよう。
フローを得る方法
フローは比較的得るのが難しい精神状態で、求めれば求めるほど得にくくなっていく。
performanceinmind.co.ukのスポーツ心理学者、ジョセフィーヌ・ペリー博士は「フローを得るためのアルゴリズムは存在しません」としている。エンデュランス系ランナーやテニス選手、ゴルフ選手と仕事をしているペリー博士は次のように続ける。
「“あれとこれをやればフローが得られます” というわけにはいきません。それが解明できたら世界的に流行するでしょう」
フローを得るためには、アブラハム・マズローの「欲求段階説(自己実現理論)」を理解する必要がある。マズローは人間の欲求を生理的欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求という5段階に分けており、ひとつの段階が満たされることで次の段階に進むとしている。
その最上位に位置する自己実現欲求の次の段階がフローだ。マズローの5段段階に取り組んで正しい基礎を得ることで、フローが得られるようになるのだ。
ペリー博士は「アスリートには、すべての欲求を満たし、自分のスポーツを完全にリラックスした状態で取り組めるようになればフローが得られる条件が揃うと説明しています」と続けている。
フローの妨げになるもの
ペリー博士は、様々な障壁を取り除いて正しいコンディションを用意してフローを得やすい状況を作り出すことが重要だとしている。
以下にフローを得るために取り除いておくべき障壁をいくつかリストアップしておく。
【準備不足】
フローを獲得するための重要な要素のひとつが「スキルを磨いておく事」だ。自分のタスク(スポーツ)のトップレベルに立ったり、エリートアスリートになったりする必要はないが、「準備しておく事」がフローを得る助けになる。
たとえば、ハーフマラソンの本番に向けてトレーニングプランをしっかりと立てれば段階的に成長して自信が深まっていくので、リラックスして本番に臨めるようになる。また、自己ベスト更新の確率も高まるだろう。
【好きではないのにやっている】
自身もランニングを楽しんでいるというペリー博士は、2ヶ月に1回はフロー状態で走れているとしているが、クライミング、ランニング、スピンクラスを問わず、自分のスポーツに完全に集中した経験が一度もないなら、おそらくそのスポーツをそこまで好きではないと自分を認めるべきなのだろう。自己ベスト更新や成長が確認できていても、好きでなければ意味がない。
ペリー博士は「好きではなく、得意だからという理由でスポーツを楽しんでいる人がいます。ですが、彼らはモチベーションの部分で躓いてしまうのです」と説明している。
とはいえ、“得意” がフロー獲得の助けになるのは確かだ。ペリー博士が続ける。
「そのスポーツが不得意ならフローを得るのが難しくなります。自分には才能がある、準備ができていると思えないからです。また、自分がやっていることに没頭する代わりに自分が今何をしているのかをいちいち確認しなければなりません」
自分に最適な状況を見つけることがフローを得るためには大切だとペリー博士は強調している。
「たとえば、ビーチランをするとフローが最も得やすくなるという人がいます。なぜなら、その人は海、波の音、髪を撫でる潮風などが好きだからです」
「一方、ビーチランは嫌いですが山のトレイルランは好きという人がいます。彼らは自分の呼吸音や登坂中の荒れた息からフローを得るのです」
「ですので、フローの獲得方法は個人の好みによって変わってくると言えるでしょう」
【競争】
世間の考えとは異なり、競技上のゴール(順位や結果)は、モチベーションを高める要素にはなるがフローを得る助けにはならない。むしろ、フローの獲得においては妨げになる可能性がある。
競技は心理学で言うところの「外的動機付け」が中心に置かれているが、幸福感や成功に繋がるのは「内的動機付け」(特定のスポーツやタスクが好きだという純粋な気持ち)だということが研究で明らかになっている。
ペリー博士は次のように説明する。
「競い合っている時は、外的動機付けが重要になります。たとえば、順位や結果を優先すると、最後尾でゴールして恥をかきたくないなど、他人(外)からの評価が常に気になってしまいます。他人の前で倒れたくない、メダルを獲得したいという意識が大切にされてしまうのです」
「また、レース中はアマチュアアスリートでも123個のストレスを抱えると言われています。そのような数のストレスに囲まれながら、リラックスして全力を出すのは不可能です」
「ですが、自分とゴルフクラブだけしか存在しない、誰もいないゴルフコースを訪れれば、自分を見つめやすくなるので、1時間半後に “ワオ、あっという間に時間が過ぎてしまった” と思えるわけです」
【スキルとチャレンジのアンバランス】
内的モチベーションの他にも、フローを得るために必要な条件がある。それは、すでに手に入れているスキルと自分が伸びるためのチャレンジ要素のパーフェクトなバランスだ。
このパーフェクトバランスが手に入れば、トレーニング中のワークアウトが簡単かつ楽しくこなせるようになると同時に、退屈や自己満足を避けるだけのチャレンジを自ら作り出せるようになる。
【恐怖】
不安と自己意識は人間をマヒさせる。硬くなって普段の動きができなくなってしまったテニス選手やゴルフ選手をしばしば見かける。また、スポーツ以外でも舞台恐怖症やライターズ・ブロックなどの言葉で表現される。
このような状態はフローの真逆に位置している。基本まで戻り、いちからやり直さなければならないのではないかという恐怖に囚われてしまうのだ。
この状態を避けてフロー獲得の確率を高めるために、ペリー博士は「Performance-Avoidance(不得意なことを避ける)」のマインドセットよりも「Performance-Approach(得意なことをやる)」のマインドセットを用意する必要があるとしている。
「Performance-Avoidance(不得意なことを避ける)」のマインドセットは、「ミスをしない・危険を回避する」ことを重視するので慎重になりすぎてしまう。
そうではなく、フローを得るためには、ミスを怖がるよりもミスから学ぶ姿勢を持つ方が重要だ。ミスをスキルや能力不足の結果として捉えるのではなく、修正・学習の機会として捉えるようにしよう。
フローを得やすくするためのヒント
1:コンフォートゾーンの外側に出る
フローは突き詰めて言えば「ゾーン」だ。チクセントミハイは人間が最も多くを学べるのは目覚めの瞬間だとしている。コンフォートゾーンの外側に出て、成長のためには新しいスキルを手に入れる必要があるという気付きを得ることが、フロー獲得のチャンスを生み出す。
大きすぎるチャレンジは我々を圧倒してしまうためフローの邪魔になるが、現状に満足していてもフロー獲得の邪魔になる。ゾーンに居続けるためにはスキルとチャレンジのバランスを保ち、常に学び、プッシュする機会を作り出していく必要がある。
2:メモを取る
スポーツ心理学者はアスリートの “セットポイント” を予想できる。セットポイントとは、スキルとチャレンジのバランスがパーフェクトになってフロウを得る瞬間を指すが、研究を続けてデータを集めていけばその瞬間が見極められるようになる。
アマチュアアスリートにそのような研究をしてくれる専門家チームを抱える余裕はない。しかし、フローを得るまでのパターンを意識すれば、フローを再現できるようになる。
ペリー博士は、ワークアウトやトレーニング中にフローを感じたら、その瞬間に何が起きていたのかを書き記しておくことを推奨している。
風は強かっただろうか? 気温は高かっただろうか? それとも低かっただろうか? ビーチにいたのだろうか? 屋内にいたのだろうか? それとも山だったのだろうか?
また、自分はどんな状態だったのだろうか? 怪我から復帰したばかりで走れるだけで嬉しかったのだろうか? それとも退屈を感じていたのだろうか?
ペリー博士は次のように説明する。「中々伸びない時期を迎えている時、スポーツでストレスを発散してリラックスしたいと思っている時、レースやイベントが控えている時などにフローを得られた状況を部分的にでも再現できれば、大きなアドバンテージになるでしょう」
3:好きなことをやる
スポーツやタスクに100%集中するためには、心理学者が言うところの「内発的動機付け」が必要になる。つまり、報酬や見返りを求めず、自分のために自発的に取り組むことだ。ペリー博士は次のように説明する。
「何かを勝ち取りたいという理由で競技やトレーニングに取り組んでいると、結果に囚われるようになります。これはフローを得たり、パフォーマンスを高めたりするための助けにはなりません」
「ですが、自分のためにやるという気持ちを持てていれば状況は変わってきます。純粋に新しいスキルを身に付けるのが好きだったり、特定のスポーツの動きが好きだったり、スポーツから楽しさを感じ取ったりしているなら、フロー獲得率が大幅に高まります」