ファンジオ、クラーク、リント、そしてセナといった、F1の歴史を鮮やかに彩った稀代のチャンピオンたちはその究極まで研ぎ澄まされたドライビングスキルによって私たちの記憶に深く刻まれてきた。
しかし、70年代のプレイボーイ的ライフスタイルを体現したジェームス・ハント(James Hunt)は、そのような巨星たちとはまた違った形で記憶に残るF1ドライバーだ。
1976シーズンのF1ワールドチャンピオンに輝いたドライバーであるという事実以上に彼が今も多くの人々に愛されているのは、やはり独特の異端児的キャラクターゆえだろう。
彼はマシンを降りると、煙草とビールを常に傍らに置き、ウィットの利いたメッセージがプリントされたTシャツに身を包んでパドックを闊歩していた。
以下に紹介する映像は、1976年のイギリスGPで彼が優勝した時の表彰台での模様を収めたものだ。誰彼となく煙草をねだりながら、その優勝の価値を「選手権ポイント9点、賞金2万3千ドル。それに多くの喜び」と簡潔に答えるその姿には、一般的に広く知られるハントの豪放磊落なキャラクターが端的に表れている。
しかし、2013年にロン・ハワードが監督し、ハントとニキ・ラウダの熾烈な1976シーズンのタイトル争いを描いた映画『ラッシュ/プライドと友情』でも示唆されていたように、ハントには大衆に決して明かされることのなかった深い人間性があったようだ。
今回の記事で使用されている写真は、写真家デビッド・フィップスが撮影したものだ。また、記事内ではこのフィップスの作品を管理する伝説的F1フォトグラファーのキース・サットンがハントにまつわる様々な思い出を語ってくれている。
数々の素晴らしい写真を眺めながら、ハントの様々なエピソードを楽しんでもらいたい。
01
1976シーズン F1世界選手権イン・ジャパン:ワールドチャンピオンを獲得したハント
降雨で終始混乱した富士でのレースを終えてマシンを降りた直後、1976シーズンのタイトルを逃がしたと思っていたハントは落胆と怒りに包まれていた。
下の写真は当時のマクラーレンのボス、テディ・メイヤーが「おまえさんは3位だ。ラウダに1ポイント差でおまえさんのチャンピオンが確定したんだぞ!」と伝えたその瞬間を捉えたものだ。
その放埒なパブリック・イメージとは裏腹に、スポーツマン然とした素顔を持っていたハントはレース後のBBCのインタビューで次のように回答した。
「僕は自分をこのチャンピオンに相応しいドライバーだと思っているけれど、同時にニキ(ラウダ)にもチャンピオンの資格は十分にあったと思う。できることなら、ニキとこのチャンピオンを分け合いたいくらいさ」
02
表彰台でのラウダとハント
1977シーズンのイギリスGPの表彰台で「フレネミー(Friend + Enemy:親友にして最大のライバル)」であるニキ・ラウダと共に健闘を讃え合うハント。ラウダの顔には、前年ニュルブルクリンクでのドイツGPで負った火傷の痕がまだ生々しく残っていることが下の写真からも見て取れる。
ハントの純粋なドライバーとして能力はときに過小評価されているのではないかという私たちの問いに対し、キース・サットンはきっぱりと答える。
「間違いなくジェームスは速かったです。しかも、並外れた速さを持っていました。確かに彼には気分屋なところがありましたし、ドライビングにも好不調の波が多かったです。彼のF1キャリアも同時代のドライバーたちに比べると比較的短かった。1973シーズンでデビューして、その6年後の1979シーズン途中に突如引退しています」
「引退の決断も実に彼らしいものでした。セッション中、マシンにトラブルもないのにいきなりピットに戻ってきて "もう十分。引退するよ" とひと言だけ残してマシンを降りたのですから」
03
バーニー・エクレストンやテディ・メイヤーとバックギャモンを愉しむハント
そのお気楽な性格に反して、ハントはかなりの負けず嫌いとしても有名だった。中でも彼が得意としていたのは昔から親しんでいるスカッシュやテニス、そしてバックギャモンだった。
サットンは語る。「これは彼のプライベートなライフスタイルを捉えた写真の中のお気に入りです。スペインのマルベージャにあるリゾートでリラックスしながらテニスをプレイしているジェームスの素晴らしい写真もありますね」
04
ガールフレンドとハント
ハントに関してもうひとつ有名なのは、その華やかな女性遍歴だ。中でも有名なのは最初の結婚相手スージー・ミラー(俳優リチャード・バートンとの不倫報道でスキャンダルを巻き起こし、後にハントと離婚)との関係だが、2番目の妻となったジェーン・バーベックも忘れてはいけない存在だろう。
「彼の傍にはいつも美女がいました」とキースは語る。「なかでも、モデルだったスージー・ミラーはとびきりの美女でしたね。思えば、ジェームスは常に今その瞬間を楽しもうとする刹那的なところがありました。当時は今よりもずっと自由な時代でしたしね」
05
1977シーズン:アメリカGP優勝直後のハント
1980年にフリーランス・フォトグラファーとしての活動を始めて以来、現在もF1を追い続けているサットンに次の質問を投げかけてみることにした。
現代の管理化されたF1ドライバーたちにおいて、ハントに近い個性を持ったドライバーはいるのだろうか?
サットンは即答した。「キミ・ライコネンですね」
「キミとジェームスは非常によく似た個性を持っていると思います。もちろん、世代はまったく違いますが。キミは70年代の自由で危険なF1で走ってみたいと思っているのではないでしょうか?
「キミにとって、ジェームスが憧れの存在であることは明らかです(ライコネンは地元フィンランドのスノーモービル・レースに参加した際、メディアを避けるために "ジェームス・ハント" と名乗ってエントリーしたことがある。また、2013シーズンのモナコGPでライコネンが用意したヘルメットはハントのヘルメットデザインを流用していた)。」
「ですが、当然ながら現代のF1ドライバーたちはメディアからのプレッシャーがさらに大きいですし、一挙手一投足が注目されているので、ハントのような個性が居場所を見つけるのは難しいかもしれません。キミもデビュー当時の方が今よりもハント的な雰囲気を備えていた気がします」
06
1978シーズン イタリアGP:ロニー・ピーターソンの救出を試みるハント
ハントの人間性とその根底にあるスポーツマンシップが如実に表れた1枚。下の写真は、モンツァのストレート上で燃え盛るロータスのマシンからロニー・ピーターソンを必死に救出しようと試みるハントの姿を捉えている。
事故直後、両脚における重度の骨折以外は命に別状はないと思われていたピーターソンだったが、残念なことに翌日未明に容態が急変し帰らぬ人となってしまった。骨折部位より血管に流れ出た脂肪粒が脳・腎臓・肺の血管に詰まり血液循環を阻害する脂肪塞栓症が死因だった。
07
1976シーズン イギリスGP:勝利したハント
「個人的に一番思い出に残っているジェームスの姿は、彼が晩年を迎えて人間的にかなり丸くなった頃です」とサットンは打ち明ける。「引退後のジェームスはBBCでF1中継コメンテーターを努めていましたが、エストリルで行われたある年のポルトガルGPで、私は彼と同じホテルに宿泊する機会に恵まれました」
「ジェームスは2人の小さな男の子を連れていました。『なんて素敵なお父さんなんだろう』と感心しながら眺めていたのを憶えています。なんというか、すごく落ち着いた良い表情をしていました」
「パーティ三昧と派手な女性遍歴の放蕩の日々を経て、彼がようやく真人間に成熟したという事実には、ちょっとした運命の皮肉のようなものを感じます。なぜならそれからまもなくして、彼は心臓発作により45歳の若さでこの世を去ってしまったからです。普通の人生だったらまだまだこれからという年齢です。残念ですよね」
最後に、なぜ現代でもハントがこれほどまで多くの人々に愛され続けているのか、その理由をサットンに訊ねた。
「70年代の英国には、アレックス・ヒギンズ(訳注:英国のプロスヌーカー。英国にビリヤード人気を広めた不世出のスヌーカーで大衆に愛されたが気難しい性格の持ち主で、依存症に苦しむ一面もあった)やジョージ・ベスト(訳注:1960年代のマンチェスター・ユナイテッド黄金期を支えた希代のFW。アイドル的な容姿やピッチ上での活躍と対照的な破天荒でスキャンダラスな私生活が多くの共感を呼んだ)のようなスポーツの枠を飛び越えるスターたちがいました」
「折しもちょうど彼らの全盛期が過ぎようとしていた頃に登場したのがジェームスでした。ヒギンズやベストと同じく、ジェームスには一般大衆の強い共感を呼ぶ人間くささがありました」
「要するに、逆の言い方をすれば」と彼は最後にこう付け加える。「近年のF1ドライバーのセレブ的ライフスタイルに共感できる一般大衆がはたしてどれだけいるのかという話です」
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