7月11日の決戦まで残すところあと1週間となり、 注目の対戦カードも発表された Red Bull BC One Japan Cypher 2015。
今や世界中を飛び回り、日本とオーストラリアという2つの拠点を行き来するKatsu1は、18歳の時にB-Boyとしてのキャリアをスタート。「小学生の頃から海外への興味はめちゃくちゃあった」という彼は、始めて間もなくから海外の現場へ足繁く通い、そこで得たリアルな体感の昇華を続けながら、Style Vale Tudo、All Areaという、2000年代の日本を代表する2つのクルーを率いてきた。
コミュニティという視点で、彼ほど世界津々浦々のシーンを目の当たりにしてきたB-Boyは、他にいないだろう。Katsu1が見てきた、そして見据えている景色に迫る、貴重なロングインタビューだ。
-今回は、世界中のコミュニティをリアルに見てきたKatsu1さんならではの視点にスポットを当てていきたいと思います。まずは海外に行きだしたキッカケから教えてください
ブレイキンを始めたのは18歳の頃で、初めて海外へ行ったのはそれから10ヶ月後くらいでした。アメリカのLAであったFreestyle Session 7(FSS7)に、当時日本から出ていたYAMATOの先輩方に、金魚のフンみたいに付いていったんです(笑)。Wakatakeさん(Waseda Breakers)が飛行機やホテルを全部手配してくれて、Marさん(DJ Mar Ski)に初めて会ったのも、それが初めてだったと思います。
とにかく、小学校の頃から海外に興味のある子どもで、ダンスを始めてからも海外に行ってみたいっていう願望がハンパなじゃなかった。実際に行ってみたら見るもの全てが新鮮で、街並みもイベントのそれも、どちらかと言うとダンスっていうよりも、むこうの雰囲気に衝撃を受けましたね。FSS7の会場がダウンタウンの古いホテルだったんですけど、3階建で、メインフロアでバトルがある他に、そこらじゅうでサイファーがあって。サイファーで仲良くなった韓国人と日本の仲間と、「Onimusha」っていうチームで予選にも出てるんですよ。
当時、ワンムーブの中でフリーズを2回入れれば勝てるっていう思い込みがなぜかあって、とりあえずフリーズを2回決めたから予選通ったってマジで思ってましたね、全然通らなかったけど(笑)。
-ダンスを始めた当初から海外に行きだす感じですね
とにかく、大学の最初の夏休みの長さにビックリしたんですね。卒業したら学校の先生になろうっていうのは決めていたんですけど、学生のうちに何かやんないとなって。で、1年目の冬休みを使って行ったのがそのFSS7。その後すぐにくる春休みも激長じゃないですか。冬休みのアメリカの影響がヤバすぎて、その春休みはシドニーに行きました。それ以降は、大学時代の休みを常に海外に行きまくるというサイクル。バイトもしていたんですけど、ぶっちゃけ、借りた奨学金も旅に費やしていましたし、今も返しています(笑)。けど、そこで得た経験と比較すると、全然後悔はしていないですね。
練習量も今考えたら尋常じゃなかったと思います。夕方から朝まで毎日で、怖いもの知らずで、勢いはありましたね。
-そんなKatsu1さんが思う、ターニングポイントになった旅というのはありますか
本当、毎回がターニングポイントなんですけど、まずシドニーに最初行った時かな。英語も全くダメっていう状況で1ヶ月くらい行って、毎日色んな人と出会ったり練習したりして帰って来て、「何でこんなに楽しかったんだろう?」って考えた時に、実はブレイキンってめちゃくちゃヤバいんじゃないかって気づいた。人種の壁を超えられた、それが何だったんだろうって考えると、ブレイキンだった。その時に、ブレイキンに対する考えがすべて変わりました。し、英語もめちゃくちゃ勉強し始めました。もっと喋れたらもっと楽しかったんじゃないかって、辞書を常に持ち歩くようになりましたね。
もうそこからは半年ごとに色んなところに行き続けていて、次のポイントは2002年かな、ブレイキンを始めて2年くらいの時に、オーストラリアのBOTYにFrankie FlaveとRuen(ともにKillafornia/Style Elements)が来るって聞いて。自分にとっては、FSSで観ていて、始めた時から雲の上の存在。いざワクワクして見に行ったら、当日になって、オーストラリア人以外のジャッジが一人必要らしい、と(笑)。断ったんですけど、どうしようもないってことで、何か結果を出しているわけでもないのに、恐る恐る彼ら2人とジャッジをやったことがあるんです。雲の上の存在のスーパースター2人と、自分で(笑)。ジャッジムーブなんかもめちゃくちゃ緊張して、2ムーブ目とかボロボロで。
けどその時に、雲の上の存在のヤツって、意外と同じステージなんじゃないかって感じたんですね。そこからは、見上げるのは止めようって思ったんです。外人スゲェ!みたいな感覚が、それ以降はいっさい無くなりました。
【写真】Red Bull BC One Fukuoka Cypher – ジャッジのKouske(中)、Yu Ski(右)と
-Zulu Kingz加入のキッカケもオーストラリアだったとか
そうですね、実はその合間に、韓国、NY、LA、それからデンマークやノルウェーなどたくさんあるんですけど、2004年にオーストラリアに行ったときですね。1ヶ月くらいの予定で行っていて、あと2週間もあるっていう時にお金が尽きそうになり(笑)。ニュージーランドで1on1と3on3があるらしい、両方優勝すれば賞金が20万くらいになるらしいぞ、って聞いて、オーストラリアから行きたいヤツらが集まって、一緒に行ったんですね。ハカを皆で踊ったり、伝統料理を作るために土を掘ったり、マオリ語を習ったり、マオリの文化を通じて現地に溶けこむような生活を、色んな人種の友達と1週間。
ここでダンス的にはちょっとターニングポイントになるんですけど、Pepito(7$)やRush、Mousa(ともにFresh Sox)とかヤバいヤツがいっぱいいる中で、1on1は人生初優勝、そのまま1週間後の3on3もRushとMousaと優勝することが出来たんです。それまでの自分は、1から10までネタを作って、最後はフリーズ、止まれば勝ち、音は関係なしっていうスタイルだったんですけど、この時に初めてフリースタイルで踊ってみた。自分では全く思ってもみなかった踊り方だったけれど、みんなに言われて、フリースタイルで踊ってみようって。自分の中では革命的でしたね。怖かったけど、やってみようかなって、その通りやってみたら優勝しちゃったんです。これが今のスタイルにつながるキッカケでした。
結局、イベントもそうなんですけど、ダンスっていう共通点がありながら、みんなで何かをやったり一緒に生活したり、英語で初めて人前でスピーチをしたり、Fresh Soxに入ったのもその時で、そういう、国を越えるっていうところに、あらためてHIP-HOPやブレイキンの素晴らしさに深く感銘を受けたんです。
そんなことを感じていたら、ゲストジャッジで来ていたAlien Ness(Zulu Kingz)に、「Zulu Kingz知ってるか?」って聞かれたんですね。もちろん、「知らない」って。その時にZulu Kingzのことを色々教えてくれて、アジアにメンバーがいないから、お前やらないか、と。当時はまだ10人くらいしかメンバーが居なかったと思いますね、全員アメリカ人で。
でも、俺だけ日本人で、1人でバトルに出られるわけじゃないし、何が出来るの?って聞き返したんです。そしたらNessは「Zulu Kingzの使命は、自分が思うHIP-HOPの素晴らしいところを、若い人や知らない人に伝えることなんだ」って言うんですね。これにはもう、崩れ落ちた。自分がやっていいのかっていう気持ちもありましたけど、何て素晴らしいんだ、是非やりたいって。そこからまた変わることが出来たし、ものすごい転機だったと思います。
ちょうどその当時、日本のシーンも何となく、「意味」に興味を持ちだしていた頃でした。自分もNYに行って色々質問して持ち帰って、チームメイトだけにはシェアしていたんですけど、例えばトップロックとか、手を使うスタイルっていうのは当時ほとんど見なくて、自分のスタイルは確実に浮いていたと思います。2005年にNessと出たB-1最強タッグのFinalなんかは、何かが変わった、ある意味革命的なバトルだったのかもしれないですね。よく海外のB-BOYからも、あれ観たよって言われたりします。
-そのZulu Kingzとして、Freestyle Session 10でついに優勝を果たします
2007年ですね、アメリカのFSSで優勝するっていう、最大の夢が叶いました。10周年のFSSに、ベストメンツでZulu Kingzとして出るっていうのに意味があって、SVTの皆に頭を下げて、Zulu Kingzで出させてもらいました。
これがある意味では自分の中で鬱になったんですけど、優勝して嬉しかったのは3日で終わって、そのまま目標が分からなくなって、練習しなくなってしまいました。SVTでやればいいのに、SVTのメンバーも半分くらいが別の道へ歩み始めた頃。All Areaとして火がつくまでは、目標もなく、ホントに鬱でしたね。
-少しずつ立ち位置も変わってきた頃でしょうか
はい、とりあえず俺はもう、今しかできないことをやらないといけないと思って、2007年くらいから2010年くらいまで、とにかく毎週末海外に行くという生活をしてみました。オファーも全部受けたし、何も無い週は、自分で行く。その時に、発展途上国も先進国も、色んな国の状況をみて、ダンスだけじゃない部分を大切にしないといけない、ダンスを通していろんなことを勉強したいっていうふうに、自分のマインドが変化していきましたね。
もうあの頃はおかしくなっていて、成田の近くに行くと体中にじんましんが出来るんですよ。体は拒否しているけど、気持ちは行きたい、みたいな。今は絶対に出来ないですね。
そうしているうちに、自然に思ってくるんです。「日本って、ヤバいんじゃね」って。海外に憧れていた小学校からの感覚がいつの間にか逆になっていて、俺らって凄いんじゃねって。外を見れば見るほど、行けば行くほど、日本の良さがすごく伝わってきたんです。
-その頃に出会った印象的な出来事はありますか
自分の中で革命が起きたのは、ベトナムに行った時。ダンスとしても人生としても、日本人として、日本人だからこそやらないといけないっていう思いになったキッカケなんですけど、Big Toe Crewとの出会いですね。
ハノイに行った時に、ローカルな街に行くと、たくさんのストリートチルドレンがいて、2円くらいのガムを売っているんですね。遠くからはボスが監視しているんですけど、買うとその金はボスに渡って、さらに子供が買われて悪循環だって言うんです。助けたいときに助けられないっていう状況が、言葉にならなかったですね。ガムを全部買うのに必要なお金はあるけど、それじゃ助けられないっていう、そういう情勢を目の当たりにして、なんだここはと、ベトナムの歴史、ホーチミンのこと、色々と勉強し始めて。
Big Toe Crewはベトナムのクルーで、その年(2010年)のBattle Of The Year(BOTY)の東南アジア大会で優勝して、フランスのFinal行きを決めていました。俺がベトナムに行ったのは優勝が決まった後だったんですけど、もう、朝から晩まで練習しているわけですね。十年以上の歴史があるクルーの、皆の夢だったBOTY Finalに向けて。
でもひとつ大きな問題があって、ベトナムはフランスの植民地だった歴史からか、Finalが開催されるフランスへのビザの発行がものすごく厳しい。優勝したからといって簡単に行けるわけじゃなくて、それなりの人からのレターが必要だった。大使館にも、3回行って3回断られているって言うんです。
ビザも取れていないのに、朝から晩まで練習していて、家を買うレベルの金額を出し合って、人数分の航空チケットも買っている。鳥肌が止まらなくなってしまって、おせっかいかもしれないけど、どうにかして取らせてあげたい。とにかく、ベトナムからBOTYのオーガナイザーであるThomasに電話して、大使館から電話すると思うから直接説明してくれって、俺から頼んだんです。この話、今も鳥肌出てきちゃいますね。
それでどうなるか分からないまま、俺はいったん日本に戻り、後日BOTY Finalのジャッジとしてフランスへ。ビザがどうなったかは聞かされていなくて、めちゃくちゃ不安だったんですけど、フランスでBig Toe Crewの皆が無事に着いていたんですね。もう皆でハイタッチして抱き合って。聞いたら、Thomasに頼んでおいた電話が効いたみたいで、出発の3時間前にビザが下りたって。
これって、例えば自分がBOTYの予選、もちろん優勝するのは大変だけど、そこからさらに大変なことって無いんですよね。日本だったら、旅費は1週間バイトすれば貯まるじゃないですか。けれどあいつらは、数%の可能性を信じて、夢のために、全てをかけていた。
マジで彼らのショーの時は、ジャッジ席に居ながら本当に泣きそうでした。チーム名をコールされて、ベトナムの国旗を持ってステージに出てきて。始まってからはもちろんジャッジとして見ますけど、それまでは見ると泣いちゃうんで、見れなかったです。自分が自分じゃないというか、説明が出来ないくらい。それだけのものをかけてやってきて、今、どんな思いがあるのかなって、もう、勝ち負けじゃなくて、スーパーHIP-HOPなんですよね。それをやるのがリアルなB-BOYなんじゃないかって、本当に感動しました。
そのベトナムの体験から、自分の夢というか、ストリートの子どもたちを助けるためにはどうすればいいんだろうって、真剣に考え始めました。ストリートやB-BOYを通じて、人生を楽しいって思うために、どうやったら出来るか。それを突き詰めて考えた時に、結局はお金が無いと出来ない、ならば個人レベルじゃダメで、会社という組織を作って、ストリートの子供が通えるような学校を作ったりとか、そういう事業をやりたいって。それが、自分の歴史上一番の革命かもしれないですね。
-その思いを形にする前に、1年ほどオーストラリアに移住し、永住権を獲得されました
はい、その2010年くらいから、ダンスだけで食わないっていうことは決めていました。フェードアウトじゃないけど、バトルだけではやらないよっていう感じで、漠然と海外に留学しようと思っていたんです。英語だけの生活、日本と違う環境での生活、ダンス関係なしに、いち日本人としてどこまで通用するのかを、試したかった。
実際に行ってみると、日本で当たり前に出来ることが普通に出来ない。ダンスで食うっていうのも、向こうは通じなかったですね。レッスンも多少あるくらいで、普通に工場でバイトして、英語で必死に仕事をするっていう。実は、3ヶ月目で日本に帰ろうって引きこもりになってしまったこともありました。
それで残り半年っていうときに、俺の人生はこれしかないから、B-BOYとして永住権のビザを取ってみる、言えば、国を認めさせる挑戦をしてみようと。StormやThomas、DJ Teeさんなど、世界中のお世話になった人たちから推薦状をもらって、膨大な書類を作り、テストのために勉強して。結果的には取れたので、表面上はスゲエって見えるかもしれないですけど、実際にはその方々のお陰で、それがなかったら到底無理でした。
-オーストラリアへの定住は考えなかったですか
やっぱり色々考えた時に、自分は日本にずっといられないし、どこかへ行ってしまうんですね。本当に色んなことを考えましたし、日本をバカにして海外に住んでいる人とかもいるじゃないですか。けど自分のベストを考えたときに、行き来すればいいんじゃないか、って。
逆に、何で2つに住んじゃいけないの?って思うところもありますし、そのためには、いま自分がやらないといけないことをマジでやらないといけない。自分がいまやっていることは全力でいくっていう覚悟です。妻がオーストラリア人っていうのも大きいですし。
-そして現在はご自身の会社IAM(アイアム)を立ち上げ、さまざまな活動を興されています。いまKatsu1さんが伝えたいことは、どういうところなのでしょうか
英語だと、「I am なになに」って、続きますよね。でも、これだ!っていうものは、全員にあるものだから、その、「俺!」ってところで、あえて止めたいなと。
かつてKRS ONEに、「HIP-HOPって何?」って聞いたことがあるんです。そしたら、俺の眉間を指さして一言だけ「YOU.」って。突き刺さりましたね。行き着くところ、HIP-HOPってそういうことなんじゃないかなって。今までの自分の経験や、ダンスならダンスを通じて、そういう気持ちになれるっていうのが、自分の中ではとても重要なことなんです。
ワークショップをやったりするっていうのは、そういうところを伝えたいですね。ムーブだとか、歴史だとかは、どうってことない。そこの気持ちさえわかれば、どうでもいいんですね。とはいえ、B-BOYを真剣にやってきてそういうところに行き着いたからこそ、ムーブや歴史も追求する。それが一番伝えたいことです。そのためには、日本のことを知っておくとか、出来るだけ掘り下げたいし、ダンス以外も追求したい。
気づきっていえばいいのかな、何て言うのかはちょっと分からないし、一人ひとり違うもの。俺自身、色んな転機があった中で、その「何」っていうのは毎回違かったかもしれないけれど、その時どきの自分にとって、その時どきに鳥肌が立った時に、ものすごく意味のあるものだったし、気づいたものだった。人によっては、海外じゃなくても気づくかもしれないですしね。家族や、彼女かも知れない。本当、一人ひとり、違うものだと思います。
ただ、その「何か」に気づいた人は、強いんじゃないか。それが、人に何かを与えられるんじゃないかって、思っています。「こういうふうにやったらいいよ」とは言えないけれど、行動を起こす原動力になることは出来る。ちょっとやってみようかなって、違くてもいい、見つけるまで気づくまで、やり続ける。その行動力を養って欲しいから、人に教えているんだと思います。
色んな人を見てきて、自分も考え続けていると、何となく分かるんですね。ダンスをみて、そのスタイルをみて、俺の主張はこうですって聞いた時に、ホントはそうじゃないでしょって、正直、気づくことは多々ありますよ。あんまり言わないけど、本当にそう思っている?カッコつけて言ってしまうことも凄く分かるけど、もっと分かるためには、もっと経験しないといけない。自分に嘘はつけないですから。悩んでいる人は皆そうで、何が好きなの?何が欲しいの?っていう問いに対して、「これ」ってシンプルに言えることを常に求めていけば、ダンスも人生も間違った方向には行かないんじゃないかなって思いますね。死ぬまで、一生生徒であり続けるって、そういう意味だと思います。