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『マイコンBASICマガジン』、昭和のゲーム少年がヒーローになれた月刊誌

© Riko Kushida
ゲーム専門誌もSNSもなかった1980年代に、ゲーム少年の居場所であり交流スペースとなっていた雑誌『マイコンBASICマガジン』。その同窓会的なイベントへ行ってみた。えっ、あのひとも読者だったんだ!
Written by 櫛田理子公開日:

人気パソコン誌の回顧イベントに集まった1100人の"同窓生"

ファミコンが発売される前後の1980年代前半、ゲーム少年は飢えていた。
ネットどころかゲーム専門誌もない時代で、とにかく情報が手に入らない。
ゲームの話ができる仲間も欲しかったけど、もちろんSNSとかはなくて。
ゲーム好きが集まっていたゲームセンターも、当時は大人の目を盗んで通ったりする場所だったから、友達まで発展する機会はなかったって子もいたんじゃないかな。
会場のよみうりホール(東京)を埋め尽くした、かつてのゲーム少年たち
会場のよみうりホール(東京)を埋め尽くした、かつてのゲーム少年たち
"ベーマガ"こと『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社刊/1982年~2003年)は、そんなゲーム少年の"居場所"だった。
読者参加型のホビーパソコン誌で、ページをめくれば自分と同じゲーム好きからの投稿が載ってたし、マイコン(≒パソコン)の知識やゲームの情報を教えてくれるお兄さんやお姉さんもいて、頼りにしたし、憧れた。
見ず知らずの仲間が集う、秘密の課外活動みたいな感じだったんだよね。
会場ロビーには22年にわたって刊行されたベーマガの表紙が。最盛期には28万部の発行部数を誇った
会場ロビーには22年にわたって刊行されたベーマガの表紙が。最盛期には28万部の発行部数を誇った
そのベーマガの作り手たちが出演する回顧イベント"ALL ABOUT マイコン BASIC マガジン II"が、2018年1月に東京で開催され、お互い直接会ったことのないかつての遊び仲間1100人が一堂に会した。
元読者のオフ会みたいなアットホームなムードのなか、初対面で誰もがいきなり打ち解けるような、そこまでグイグイ来ない距離感がしっくりくる……リアルな彼らにやっと会えたんだ。
イベントのプロデュース、そして司会・進行を務めたのは、ベーマガの看板ライターだった山下章さん
イベントのプロデュース、そして司会・進行を務めたのは、ベーマガの看板ライターだった山下章さん

ゲーム少年をとことん主役に立ててくれた読者参加型の誌面

「開場が待ちきれない」。熱心な元読者が列を作るなかに、稲葉忠さん(46歳)もいた。
なんと、イベントのために北海道からやって来たという。かつて、ベーマガにゲームプログラムを投稿していたという稲葉さん。そう、ベーマガのメインコンテンツは、読者投稿によるパソコン用ゲームのプログラムだった。
元常連投稿者の稲葉忠さん。初掲載は1986年3月号で、コモドールマックスマシーン用のゲームだったそう
元常連投稿者の稲葉忠さん。初掲載は1986年3月号で、コモドールマックスマシーン用のゲームだったそう
読者はゲームを自作して編集部へ送付。採用されると、そのプログラムが誌面に掲載される。それを見た読者が、自分のパソコンに打ち込んで動かす。昭和のマイコン少年を夢中にさせた遊びだ。
当時のパソコンは高価だったから、電器店にベーマガの切り抜きを持っていき、展示用のマシンにコソコソ入力する……なんてカルチャー(!?)もあったんだよね。筆者も一度だけやったんだけど、打ち間違えがあったのか、ゲームは動かなかったなぁ。
BASICなどのプログラミング言語で書かれたゲームプログラムが、投稿者のコメントとともに掲載された
BASICなどのプログラミング言語で書かれたゲームプログラムが、投稿者のコメントとともに掲載された
当時はホビーパソコンと言えども高価だった。写真は比較的安価だったNEC PC-6001mkII
当時はホビーパソコンと言えども高価だった。写真は比較的安価だったNEC PC-6001mkII
稲葉さんは小学生の頃、お年玉で買ったゲームパソコンM5(販売元は玩具メーカーのタカラ)に投稿プログラムを打ち込んでいるうち、「自然と命令文(プログラム)の書き方を覚えていった」のだそう。
その後、中学時代に"まっぴ"などのペンネームで投稿をはじめ、計24本も採用されたというから、主役級の常連だったのだ。「あの頃、同い年の投稿者がいて、意識してたんですよ。今日、もし会えたなら、当時どんなふうにゲームを作っていたのか聞いてみたいですね」。
編集部と"プログラム投稿者"がCEDEC AWARDSを受賞したことを報告する、大橋太郎編集長
編集部と"プログラム投稿者"がCEDEC AWARDSを受賞したことを報告する、大橋太郎編集長
イベントでは大橋太郎編集長が、ベーマガが"CEDEC AWARDS"(技術面からゲーム関係者の功績を称える賞)の2010年度最優秀賞(プログラミング・開発環境部門)に輝いていたことを紹介。
ゲームプログラマー育成への貢献が認められたのが受賞理由で、その受賞者名には"元『マイコンBASICマガジン』編集部とプログラム投稿者"と記述されていて……とことん、読者を主役に立ててくれた雑誌だったんだよね。
元『マイコンBASICマガジン』編集部とプログラム投稿者の受賞を報じるCEDEC公式サイト
元『マイコンBASICマガジン』編集部とプログラム投稿者の受賞を報じるCEDEC公式サイト

ゲーム業界で活躍するかつての読者たち

当日のステージでは、ベーマガからプロの世界へ羽ばたいたゲーム業界人たちを、多数見ることができた。
たとえば、"Bug太郎"のペンネームでNECのパソコンPC-8001用のシューティングゲームを投稿し、読者のヒーローとなった谷裕紀彦さん(48歳)は、現在もゲーム開発会社スマイルブームで新作などに取り組んでいる。
元投稿者と、技術記事担当の断空我さん、解説マンガで人気のくりひろしさん、計5名のプログラマーが登壇
元投稿者と、技術記事担当の断空我さん、解説マンガで人気のくりひろしさん、計5名のプログラマーが登壇
また、ゲーム音楽界のスター、古代祐三さん(50歳)もそのひとり。高校生のときに誌面でゲームミュージックプログラムコンテストの開催を知り、ナムコのアーケードゲーム『ドルアーガの塔』の曲で応募しようとするも、締め切りが過ぎていたんだって。
そこで、直接編集部に作品を持ち込んだことに端を発し、ライターとして"ミュージックプログラムコーナー"を担当することになったと話していたよ。
日本ファルコム『イース』などの曲で有名な古代祐三さん。当初、編集部へは学生服で出入りしていたらしい
日本ファルコム『イース』などの曲で有名な古代祐三さん。当初、編集部へは学生服で出入りしていたらしい
一方、客席にも、元読者の経歴を持つゲーム関係者の姿が見受けられた。
スーパーファミコン用ソフト『MOTHER2』のメインプログラマーとして知られる三津原敏さん(50歳)は、現在、ハル研究所の代表取締役社長。ベーマガ投稿歴があり、ゲームアーツのパソコンゲーム『シルフィード』のMSX用ミュージックプログラムが1988年4月号に採用されたという。
「毎月8日の発売日が待ち遠しくって、わくわくしながら待っていたのを覚えています。当時、掲載されているプログラムを入力するだけではなく、自分が所有している以外のマシンのプログラムを見ることも楽しみのひとつでした。そしてシビれるテクニックを見ては、子供心に「すごいひとがいるもんだなぁ」と思っていました」と、自身のプログラマーとしての原点を語ってくれた。
ハル研究所代表取締役社長の三津原敏さん。投稿が掲載された号の表紙を見つけてニッコリ
ハル研究所代表取締役社長の三津原敏さん。投稿が掲載された号の表紙を見つけてニッコリ

個性豊かな編集者に若手ライター陣……身近に感じられた編集部

さて、前出の稲葉さんだが、当時、編集部へ見学に行きたいと思っていたんだとか。
「でも、北海道なのであきらめて。今回、編集部のみなさんが見られるので、やっと夢がかないます」。
実際、編集部へ見学に押しかけた子供たちは多かったそうだけど、わかる気がする。誌面からはワイワイ楽しそうな空気が伝わってきたし、読者の投稿にコメントを寄せる編集者たちは辛口でいて優しそうだったし、学生が中心の若手ライター陣は身近に感じられたし。
そうそう、イベント中のトークで判明したんだけど、"ミュージックプログラムコーナー"では、なんと中学生ライターも執筆していたんだって(それも3人も)!
漫画家・くりひろしさんが描いた出演者。同氏の解説マンガに登場した編集者が、編集部を身近に感じさせてくれた
漫画家・くりひろしさんが描いた出演者。同氏の解説マンガに登場した編集者が、編集部を身近に感じさせてくれた
来場していたジャーナリストの津田大介さん(44歳)も、「当時、読み物として好きでした。影さん、編さんとか、編集者が出てくるのもおもしろかったですし」と、雑誌としてのベーマガに魅力を感じていたことを明かしてくれた。
津田さんもまた、掲載プログラムを打ち込んで遊んでいた読者のひとり。その後、大学在学中にIT系のフリーライターとしてデビューし、現在は政治や音楽などの分野でも活躍中なのはご存知の通りだ。
「テクノロジーが好きだったんです。技術やネットが未来をどう変えていくのか、興味があって」という津田さんは、読者時代から現在までの自身のキャリアが地続きであると振り返った。
津田大介さんも読者だった。当時はファミリーベーシックユーザーだったとのこと
津田大介さんも読者だった。当時はファミリーベーシックユーザーだったとのこと
そして、やはり元読者である筆者にとって魅力的だったのは、個性豊かなライターたちが毎月記名で発表していた、人気アーケードゲームの記事や、難解なパソコンゲームの攻略法だ。
その影響で、自分もゲームライターになったほどで……読者のなかには、ゲームプログラムのページよりも、こちらに夢中になっていたというひとも少なくなかったんじゃないかな。
1983年11月号から、ライターによるゲーム記事が本格的に掲載されるように。当初は別冊付録の形だった
1983年11月号から、ライターによるゲーム記事が本格的に掲載されるように。当初は別冊付録の形だった

ゲームマニアの情熱と発想、そして呼応する読者がベーマガを形作っていった

でも、まだゲーム専門誌もなかった時代に、彼らはどうやってゲームライターの先駆けとなっていったのか。イベントではそこらへんも明らかになった。
アーケードゲームの記事を多数手掛けた見城こうじ(鈴木宏治)さんと、ファンタジー作品に造詣の深い手塚一郎さんは、制作していたゲーム同人誌を編集部に持ち込んだことがライター活動のきっかけになったという逸話を披露。
また、山下章さんの場合、攻略したパソコン用アドベンチャーゲームの解法を原稿にまとめ、大橋編集長に見せたことで、"チャレンジ! アドベンチャー・ゲーム"の連載が決まったという。響あきら(池田雅行)さん、TOMMY(ベニー松山)さんも、自ら編集部の門を叩いたそうだ。
見城こうじさんと手塚一郎さんが制作していた同人誌。編集部に持ち込んだことがライター活動のきっかけに
見城こうじさんと手塚一郎さんが制作していた同人誌。編集部に持ち込んだことがライター活動のきっかけに
山下章さんの"チャレンジ! アドベンチャー・ゲーム"。メーカーの意向で写真が規制されることもあった
山下章さんの"チャレンジ! アドベンチャー・ゲーム"。メーカーの意向で写真が規制されることもあった
そんな彼ら、"ゲームライター第一世代"の情熱や発想はすごくて、たとえば全国のゲームセンターにスコアボードを置いてハイスコアを集計し、ランキングをスコアラーの名前とともに紹介するアイデア企画"CHALLENGE HIGH SCORE!"も、高校生ライターのうる星あんず(大堀康祐)さんによって生み出されたんだ。
記事の冒頭で当時のゲーセン事情にチラッと触れたけど、このコーナーがスタートしてからは「有名なハイスコアラーのプレイを見てみたい」と思ったり、「この店に行けば誰かに会えるかも」と期待したりしたなぁ。
結局、筆者にはそこまでの行動力はなかったんだけど、同コーナーを運営していた見城さんは、ゲーマーたちの交流や遠征、道場破りなどが各地で発生していたことに言及していたよ。
全国そして店舗ごとにゲームのハイスコアを集計した"CHALLENGE HIGH SCORE!"
全国そして店舗ごとにゲームのハイスコアを集計した"CHALLENGE HIGH SCORE!"
あの頃、会いに行く手段も勇気もなかったけれど、今回、一緒に空気を、当時の思い出をシェアできた、かつての遊び仲間……ベーマガの主役だった昭和のゲーム少年たち。
お互い見ず知らずの存在だったけど、同じ時代に同じ居場所で同じ体験をしていた同窓の絆が、このイベントを通して確かに感じられたんだ。それぞれの道を進むなかで、たまにはまた、こうしてキラキラした過去を一緒に振り返ることができたらいいよね。
そして、そんな1980年代のゲームカルチャーを、今のゲーム少年とも共有できたらうれしいな。