Nirmal Purja at the top of Mount Everest in 2019.
© Nirmal Purja Project Possible Ltd
クライミング

ニルマル・プルジャ:8,000m級 14座 世界最速登頂記録更新!

2019年10月、ネパール人登山家のニルマル・プルジャが8,000m峰14座を189日間(6カ月と6日)で完全制覇し、大幅な記録更新に成功した。
Written by Oliver Pelling
読み終わるまで:21分公開日:
2019年4月23日午後2時(現地時間)、ネパール人登山家ニルマル・プルジャはネパール8,000m峰8座のひとつで、世界で最も登頂が難しいとされているアンナプルナ登頂に成功した。
アンナプルナは、1950年にフランス人登山家モーリス・エルゾーグとルイ・ラシュナルが初登頂を記録して以来、191人の登山家が登頂に成功しているが、一方で61人が落命しており、死亡率3割強という極めて高い数字を残している。
しかし、 “ニムズ” または “ニムズダイ” というニックネームで知られるプルジャの登頂はこの点から評価されているわけではない。評価されている理由は、彼のアンナプルナ登頂は「8,000m峰14座7カ月以内にすべて登頂して世界最速記録更新を目指す」という大胆な計画の始まりに過ぎなかったからだ。
ニムズの計画「Project Possible」が登山界で噂になり始めた頃、彼の挑戦を真剣に受け止める人はいなかった。理論的に考えれば、これは当然だった。
アンナプルナ山頂を遠くに見据えるニムズ

アンナプルナ山頂を遠くに見据えるニムズ

© Nirmal Purja Project Possible Ltd

まず、元英国特殊部隊員のニムズは登山界では完全に無名で、彼が何者なのか知る人はいなかった。次に、それまでの8,000m峰14座世界最速登頂記録は2013年に韓国のキム・チャンホ(金昌浩)が樹立した7年10カ月6日で、チャンホ以前の最速記録はポーランド人登山家イェジ・ククチカ7年11カ月14日だった。
8,000m峰14座をたった7カ月で完全制覇しようというニムズの計画は、無謀でありファンタジーだった —「泳いで月を目指す」と言いふらした方が、実現可能性の点でははるかにまともだったかもしれない。
しかし2019年10月29日、中国政府との入山許可を巡る長い交渉を経たあと、ニムズはチベットのシシャパンマ(標高8,013m)登頂に成功し、夢を現実にした。シシャパンマは彼にとって14座目、最後の登頂だった。Project Possibleはここに完結と成功の瞬間を迎えた。
最終的に、ニムズはわずか6カ月と6日(189日)でこのプロジェクトを完遂し、その過程で8000m峰6座世界最速登頂記録も更新した。無名の登山家としてこのプロジェクトに挑んだニムズは、献身的なチームに恵まれ、歴史的記録と共に登山史にその名を刻んだ。
しかし、Project Possibleはニムズが期待していたような順調なスタートを切ったわけではなかった。

パート1:順応とサバイバル

アンナプルナ登頂を成功させたニムズは、ベースキャンプへ戻った。ベースキャンプでは、マレーシア人アマチュア登山家のチン・ウイキンが36時間以上も行方不明になっていることが話題になっていた。
そこまでの長時間、高所で過酷な天候に晒されれば、ハッピーエンドは考えにくかった。そのため、ニムズと彼のチームはその晩は静かに過ごし、午前3時半頃の就寝前に貴重な酒を少しだけ飲んでアンナプルナ登頂成功を祝った。
午前6時、ヘリコプターがベースキャンプに着陸すると、飛び降りてきたひとりのシェルパがニムズのテントに駆け込み、標高7,500m地点の山腹でチンが手を振っているのを見たと伝えてきた。彼はまだ生きていたのだ。
ニムズはヘリに乗り込み、件の場所へ急行した。するとシェルパが言っていた通り、チンが手を振っていた。しかし、ヘリがチンに接近できるコンディションではなかったため、徒歩で下から向かうレスキュー活動を行わなければならなくなった。
私たちは登山家版ウサイン・ボルトのように走った
ニルマル・プルジャ
チンはアンナプルナ登頂に成功したが、下山途中で昏倒して昏睡状態に陥ってしまった。そこで同伴していたシェルパがわずかに残っていた酸素ボンベをチンに渡して第4キャンプへ戻り救助を要請した。しかし、そこにいた登山家30人のうち協力を申し出たのはひとりもいなかったという話だった。
チンが手を振っている姿を確認したニムズは、自分たちでレスキューを試みるしかないと直感した。イングランド・サウザンプトンの自宅から電話インタビューに応じたニムズは次のように語る。
「丸2日近く高所で過酷な天候に晒される姿を想像してほしい。しかも、ようやくヘリが見え、助かったと思った矢先にそのヘリが飛び去っていったら? 私が彼の立場だったらと考えた。キャンプに戻った私たちはすぐに救助の準備に取りかかった」
アンナプルナでレスキュー活動中のニムズ

アンナプルナでレスキュー活動中のニムズ

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ニムズと彼が最も信頼を置くパートナーたち(ミンマ・シェルパゲスマン・タマンギャルゼン・シェルパ)で構成されたレスキュー隊は第3キャンプ手前でヘリから降りた。
ニムズの登頂アテンプト当日は、降下ポイントからチンのポイントまで18時間かかったが、この日はわずか4時間だった。今年36歳を迎えたニムズは次のように振り返る。
「登山家版ウサイン・ボルトのように走った」
ニムズ率いるレスキュー隊はチンを発見した。
チンに意識はあったが、深刻な低体温症と凍傷を併発していたため、翌日午前6時までにチンは第3キャンプまで搬送された。そしてそのまま彼の妻が待つカトマンズの病院を経由して、シンガポールへ搬送された。
水と食糧、酸素ボンベがないまま標高7,500m地点で40時間近く遭難していた48歳のチンは、残念ながら2019年5月2日に搬送先のシンガポールの病院で息を引き取った。
プロジェクトの日程がタイトだったため、このレスキュー活動への参加はニムズのロジスティックスに問題をもたらした。アンナプルナでの滞在延長は、次の登頂目標だったダウラギリ(標高8,167m)のベストタイミングを逃し、予定より1週間長く待たなければならなくなることを意味していた。
それでもニムズはダウラギリ登頂を決行し、5月12日午後6時に登頂に成功したが、天候は最悪だった。
「風速は60〜70km/hもあった。登頂最適なコンディションを完全に逃していたが、他の山の登頂スケジュールを予定通りに進めるためには強行する必要があった」
チームは夜を徹して下山し、午前8時にベースキャンプへ戻った。そして荷物をまとめて午後3時にはカトマンズ行きのヘリに搭乗し、午後5時半にカトマンズで友人たちとダウラギリ登頂を祝ったあと午後6時に空港へ戻り、午後11時に3座目のカンチェンジュンガ(標高8,586m)のベースキャンプに到着した。実に目まぐるしいスケジュールだ。

パート2:サンダルの少年

ニムズは子供の頃から登山家になることを夢見ていたわけではなかった。彼は父や兄たちのようにグルカ兵(英国陸軍所属のネパール人兵士)になることを夢見ていた。
ニムズはネパール・ミャグディ郡の小さな村で生まれ、チトワンで少年時代を過ごした。学校では成績優秀だったが、パイロットや医師を夢見たことはなかったと語る彼は、笑いながら次のように続ける。
「チトワンはチベットで最も平地が多い地域なんだ。私にとってただひとつの夢は、グルカ兵になることだけだった。それしか考えられなかった」
2003年に18歳でグルカ兵になった彼はその夢を叶えた。6年間部隊に所属したあと、特殊舟艇部隊SBS(Special Boat Service)に配属された。
少年時代のニムズ(前列右)は成績優秀だったが、彼には他の夢があった

少年時代のニムズ(前列右)は成績優秀だったが、彼には他の夢があった

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SBSは英国海兵隊の特殊部隊で、機密偵察・急襲を専門としている。SAS(特殊空挺部隊)と並び、SBSも英国最高レベルの精鋭部隊だ。
「チベットの村でサンダルを履いて遊び回っていた少年が英国海軍きっての精鋭部隊の一員となり、小型潜水艦で世界を巡るようになった。『夢見ることを忘れてはならない』という教訓がここにあると思う」
通常、ダウラギリのような山に登るには2カ月間のアクリマタイズが必要だが、この時に高地が得意だということに気が付いた
ニルマル・プルジャ
ニムズが登山に目覚めたのは2012年、エベレスト・ベースキャンプへの遠征時だった。
「トレイルも楽しかったが、何よりその景色に心を奪われた。山頂に立ち、絶景を独り占めする感覚を知ってしまったんだ」
ニムズはガイドを説得して本格的な登山訓練(草の上でのクランポンの使用法)を受けると、すぐにそのガイドを同伴してロブチェ東峰(標高6,119m)の登頂に成功した。彼が制した最初の山だった。
この日をきっかけに、ニムズは特殊部隊の休暇をすべて費やしながら8,000m峰登頂を目指していった。そして2014年、カトマンズを起点にしてアクリマタイズ(高地順応)なしでダウラギリに挑み、14日で登頂に成功した。
「通常、ダウラギリのような山に登るには2カ月間のアクリマタイズが必要だが、この時に高地が得意だということに気が付いた」とニムズは当然のように語る。チベット登山について語る彼の様子は非常にリラックスしており、まるで愛犬との散歩の話を聞いているように思えてしまう。
2003年・当時18歳のニムズはグルカ部隊に入隊する

2003年・当時18歳のニムズはグルカ部隊に入隊する

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同年、ニムズは特殊山岳部隊に配属され、教官として極寒冷地戦を指揮する立場になると、3年後にはグルカ兵部隊初のエベレスト登頂(実際は2回目のアテンプトで成功)を目指す遠征で主任インストラクターを担当した。
しかし、ニムズにはある秘密があった。本人はエベレスト登頂をすでに経験していたのだ。
「他の隊員にエベレスト登頂の特別感を味わってもらいたかったし、登頂中の士気も高めておきたかったので、私がエベレスト登頂済みだということは誰にも言わなかったが、今はもう話しても問題ない。グルカ兵たちももう終えているからね」と言ってニムズは笑顔を見せる。
この時のエベレスト遠征は悪天候で一層困難になったが、ニムズの勇敢なリーダーシップによりグルカ兵部隊は2017年5月15日にエベレスト初登頂を達成した。
カトマンズに戻ったニムズたちは「1週間もパーティを楽しんだ」。そしてその後もニムズは悪天候の中、エベレスト登頂を繰り返していった。
私のInstagramには風で凍傷を負った自分の顔の投稿がある。当時、頂上には4〜5人の登山家しかいなかった。本当にタフだった」
エベレスト登頂後、ニムズはローツェに登頂し、ナムチェバザールで2日間パーティを楽しみ、マカルーに登頂するというスケジュールをたった5日でこなした。
「パーティがなければ、3日でローツェとマカルーの登頂を終えていただろう」とニムズは語る。
英国海軍特殊舟艇隊(SBS)時代のニムズ

英国海軍特殊舟艇隊(SBS)時代のニムズ

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ニムズが極めて長い時間、極めて厳しいコンディションの中、極めてハイレベルな行動ができている秘訣が彼の精神力にあることは明らかだ。
ニムズの肉体には一般人では考えられないレベルの高い能力が備わっており、本人でさえその能力のすべてを把握できていない。
これはニムズが特殊部隊隊員だからではない。ニムズは、同僚ならエベレスト登頂後に約1カ月のリカバリー期間を必要とするが、自分は翌日には再登頂できるレベルまで回復してしまうとしている。
「研究施設で計測しない限り、ニムズの精神力が本当に卓越しているかどうかを判断するのは難しいでしょう」と語るのは、運動科学の博士号を持ち、エクスペディションの分野に詳しいアッシュ・ルーテン博士だ。
「ニムズのリカバリー能力は卓越しているようですが、データを見てみなければ実際に彼がどのようにしてこの驚異的な回復をしているのかは分かりません」
ともあれ、このようなハイペースな登頂を繰り返したあと、ニムズは「自分なら登山界に大きなインパクトを与えられる」と自覚した。
Project Possibleのアイディアが誕生した瞬間だった。

パート3:酸素ボンベ

ニムズがProject Possibleの3番目に選んだ世界3位の標高を誇るカンチェンジュンガでは、キャンプからキャンプへ移動しながら山頂を目指すのが常識だ。しかし、スケジュールがタイトだったため、ニムズはベースキャンプから直接山頂を目指さなければならなかった。
ダウラギリ登頂後、間髪入れずにカンチェンジュンガ登頂に挑んだニムズと彼のチームは極度の睡眠不足に陥っており、立ち止まればその瞬間に眠ってしまうほどだった。
「危険だった。私たちはレース形式にすることでこの睡眠不足を克服した。眠れなくなるまでスピードアップしたんだ」とニムズは語る。
結果、チームはわずか22時間30分でカンチェンジュンガ登頂を達成した。

レスキュー活動

現在の登山界では、どのようなスタイルで登頂するかが大いに重視される。純粋主義者にとってはただ山頂に到達すれば良いわけではない。「どうやって山頂に到達したか」が重要なのだ。
酸素ボンベを使用し、シェルパを雇い、最低難度のルートで山頂を目指す登山家が存在するが、純粋主義者たちには酸素ボンベや固定されたラインを用いず、従来とは異なるルートで山頂へ到達する登山を高く評価する傾向がある。
ククチカやチャンホが過去に達成した8,000m峰14座制覇は、その大半で酸素ボンベが用いられなかった(チャンホは酸素ボンベ未使用)。また、ククチカは大半を独自ルートで登頂した。
酸素ボンベを使ってダウラギリに挑むニムズ

酸素ボンベを使ってダウラギリに挑むニムズ

© Nirmal Purja Project Possible Ltd

Project Possibleのニムズは酸素ボンベ(本人は標高7,500m超の高地キャンプから携行したとしている)と固定されたラインを使用し、シェルパを雇った。
当初、ニムズも酸素ボンベ未使用のプロジェクト完遂を目指していた。しかし、2016年、特殊部隊を離れる直前の休職期間中のエベレストでチームからはぐれて救助を必要としていた女性登山家に遭遇したのをきっかけに彼は考えを改めた。
この時、酸素ボンベを携行していたニムズは1時間45分でレスキュー活動を完了させた。酸素ボンベを携行していなかったら、彼女ひとりをそこに残すことはできなかったはずなので結果的に2人とも命を落としていただろうとニムズは考えている。
高山でのトラブルに関わるのを避けようとするのは理解できるが、自分の中で消化できなかった
ニルマル・プルジャ
これと同様のシナリオが起きたのが、カンチェンジュンガから下山していたニムズのチームが標高8,450m地点で酸素ボンベの尽きたシェルパとインド人登山家を発見した時だった。そしてさらにそこから100m下りた先では同じパーティーの別の登山家が高地脳浮腫を発症していた。
Project Possibleのクルーは自分たちの酸素ボンベをすべて彼らに譲った。
「はっきり言えば、標高8,450m地点で酸素ボンベが尽きてしまえば終わりだ。誰ひとり生還できない」
「酸素ボンベなしで登頂していれば、身体がアクリマタイズされて高地環境に馴化する。だがこのような高所でいきなり酸素切れに陥れば、9割9分の人にとって自殺行為になる。身体が慣れていないからだ」
しかし、Project Possibleのクルーに選択の余地はなかった。10時間以上救助無線を発信したあと、ニムズは誰も来ないことを悟った。
「当時、第4キャンプには40人以上がいたはずだが、ソロの登山家だろうがアルピニストだろうが、救助に来てくれた人はいなかった」
この頃になるとゲスマンが凍傷を起こしかけていたため、ニムズは彼をキャンプへ帰還させた。救助された登山家のひとりは衛星電話で妻と連絡を取っていた。
「その登山家は意識があったし、会話もできていた。第4キャンプからたった30分の位置だった。だが、酸素ボンベが尽きてしまうと15分もしないうちに息を引き取った。私たちの腕の中で亡くなったんだ」
アンナプルナ山頂を目指す

アンナプルナ山頂を目指す

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最後にはニムズとミンマにも高地脳浮腫の症状が出始めた。また、Project Possibleクルーの超人的な努力にもかかわらず、インド人登山家2人がカンチェンジュンガから生きて下山することはなかった。
ニムズは第4キャンプを早々に立ち去った。
「ああいうトラブルに関わるのを避けようとするのは理解できるが、自分の中で消化できなかった。誰も助けに来なかったという事実に吐き気を覚えた」
「あのキャンプの連中とは話したくなかった。私は直接ベースキャンプに下り、すぐにヘリを呼んで立ち去った。とにかくひとりになりたかった」
ニムズは沈黙したあと次のように続ける。
「私たちは無酸素でレスキュー活動を試みたが、たった15分で彼は亡くなってしまった。『なぜ酸素ボンベを使って登山するのか』という質問には心底うんざりしている。答えは "山ではこういうアクシデントが起きるから" だ。だから酸素ボンベは私にとって重要なんだ」
カンチェンジュンガ登頂を終えたニムズは、それから48時間以内にエベレスト(標高8,848m)ローツェ(標高8,516m)マカルー(標高8,481m)を連続制覇し、その途中でインターネットで話題となったエベレストの行列写真も撮影した。
過去何回もエベレストに登頂してきたニムズは最速登頂記録更新を狙っていたが、結局、7時間半も “渋滞に引っかかる” ことになった。
ニムズが撮影したエベレスト登頂待ちの行列は世界中で話題となった

ニムズが撮影したエベレスト登頂待ちの行列は世界中で話題となった

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終わってみれば、ニムズは途中で想定外のレスキュー活動を4回も行いながらネパール8,000m峰6座をわずか31日で制覇し、Project Possibleの第1フェーズを終えた。

パート4:ノーリスク・ノーリターン

Project PossibleはあるRedditユーザーから「登山界の月面着陸」と評され、第1フェーズを終える頃のニムズは各ソーシャルメディアで数多のフォロワーを獲得しており、登山界でも一躍有名人になっていた。
しかし、Project Possibleを支援するファンディングはスタート当初から厳しい状況が続いていた。第1フェーズ開始前、このプロジェクトの実現は到底不可能と思われていた。
ブランドや企業からの援助を一切得られなかったニムズは、毎朝午前4時に起床し、Instagramの作業をしたあと、午前7時の電車でロンドンへ向かって3〜4カ所で打ち合わせをこなし、午後7時に帰宅してから大量のメールを書くという生活を4ヶ月も続けた。
「(あの4カ月間で)午前0時より前にベッドに入れた日はなかった」とニムズは振り返る。
世界で11番目に高い標高を誇るガッシャーブルムⅠ峰

世界で11番目に高い標高を誇るガッシャーブルムⅠ峰

© Nirmal Purja Project Possible Ltd

それでもニムズの決意が揺らぐことはなかった。この夢を実現するために特殊部隊を退役し、年金50万ポンド(約7千万円)のチャンスを手放していた彼は自宅を抵当に入れ、所有していた株をすべて手放した。
ニムズはこのプロジェクトに5万5千ポンド(約770万円)の私財を注ぎ込み、特殊部隊時代の友人数名からいくばくかの援助を得て、さらにGoFundMe(クラウドファンディング)プロジェクトも立ち上げた。
結局、第1フェーズは目標額の75%でスタートした。そのため、ニムズは不足分を支援してもらうためにElite Himalayan Adventures(エベレストの商業登山企業)に話を持ちかけた。
「次から次へと資金面の問題がやってきた。だから、今回のプロジェクトを “嫌になるほど素晴らしい” と表現してきたんだ」とニムズは語る。
パキスタン入りしてナンガ・パルバット(標高8,126m)ガッシャーブルムⅠ峰(標高8,010m)ガッシャーブルムⅡ峰(標高8,035m)K2(標高8,611m)へ挑むProject Possible第2フェーズを前に、ニムズは英国の航空スペック高級時計メーカーBremontOsprey Europeをタイトルスポンサーとして獲得した。
第1フェーズで自分の可能性を世界に向けて発信できていたため、注目度が俄然高まっていたのだ。
世界中の人にこのプロジェクトとビジョンを見てもらいたい。私は農場で生まれ、村に育った普通の人間だ。これは私のプロジェクトではない。あらゆる人のためのプロジェクトなんだ
ニルマル・プルジャ
資金を確保したニムズはプロジェクト名を『Bremont Project Possible』と改めて第2フェーズ(23日間)をスタートさせた。23日間という日程の短さに驚くかもしれないが、すでに6座で最速登頂記録を更新していた彼には現実的な数字だった。
ガッシャーブルムⅠ峰で命を落としてもおかしくない状況に陥り、登山家の90%がエクスペディションを断念するほど酷いコンディションになったK2では自分の能力を初めて疑うことにもなったが、これらを覗けば第2フェーズは比較的スムーズに進行した。
次の第3フェーズは9月後半から10月後半が予定されていた。ニムズはチョ・オユー(標高8,201m)マナスル(8,156m)を数日で登頂すると、最後のシシャパンマへ向かった。チベットに位置するシシャパンマは1年を通じて入山規制されているため登頂許可の取得で問題が発生したが、最終的に中国政府が譲歩した。
そして2019年10月29日、シシャパンマ登頂と共にニムズのプロジェクトはゴールを迎えた。

パート5:常に大局を見る

「マインドセットだ」
恐ろしい天候・睡眠時間ゼロ・最悪の体調でも山を登れる秘訣をニムズに訊ねれば、彼はこう答えるだろう。
「私は他人がテントの外に出たがらないようなコンディションでも登り続けてきた。このマインドセットを保つことと決断力が重要だ。私が成功を収められている理由は、自分で下してきた決断のおかげなんだ」
登山を水泳に喩えるニムズは、溺れている人は一番近くにいる誰かに捕まろうとすると語り、次のように続ける。
「8,000m峰の “デスゾーン”(編注:人間が生存できない酸素濃度の高地エリア)も同じだ。人は本能的に生き残ろうとする。私は違う。重要なのはプラン通りに進めることだ。怯えることなく大局を見ることだ」
ガッシャーブルムⅡ峰登頂直後のニムズ

ガッシャーブルムⅡ峰登頂直後のニムズ

© Nirmal Purja Project Possible Ltd

GoFundMeを通じて世界中の人がBremont Project Possibleに出資した。ニムズが自分の限界を試すための個人的なミッションとして始まったこのプロジェクトは、今では出資者のためのプロジェクトになっている。
「グルカ兵部隊や英国海軍時代の同僚、さらには若い士官たちから賞賛のメッセージが数多く寄せられている」
「だが、私は世界中の人にこのプロジェクトとビジョンを見てもらいたい。私は農場で生まれ、村に育った普通の人間だ…。これは私のプロジェクトではない。あらゆる人のためのプロジェクトなんだ」
ニムズのビジョンを理解したひとりが、登山界で最も高く評価されている登山家のひとり、ラインホルト・メスナーだ。メスナーは16年をかけて史上初の無酸素8,000m峰完全制覇を1986年に達成した。
ニムズにとってメスナーはヒーローのひとりで、このミッションのインスピレーションだったが、ニムズは第2フェーズのナンガ・パルバットでメスナーに直接会う機会を得た。ニムズはこの邂逅を次のように振り返る。
「メスナー氏は私の目をまっすぐに見つめ、『君にならできる』と言ってくれた。彼は私の登山を見たことはなかったはずだが、面と向かってそう言ってくれた」
「メスナー氏が8,000m峰に挑んでいた当時、登山界全体が反対していたそうだが、彼は自分の考えが正しかったことを証明した。世界には理解できないビジョンを実現してみせたんだ」
パキスタンのK2登頂を祝うニムズと彼のチーム

パキスタンのK2登頂を祝うニムズと彼のチーム

© Nirmal Purja Project Possible Ltd

ニムズが登山へ夢中になるきっかけはエベレストのベースキャンプからの絶景だったのかもしれないが、山への愛を保ち続けることができている理由は、エベレストで得た大局観だった。
「私の出自で英国の特殊部隊に入れるチャンスはどれだけあると思う? 幸運に幸運が重なった結果なんだ」
「特殊部隊は200人が志願しても実際に入隊できるのは10〜11人だ。このような狭き門を通過し、昇進していくと、自分のことを無敵か超人のように勘違いしてしまう時がある」
ニムズの声が静かになる。
「だが、山へ入ると『お前など何者でもない』と山が教えてくれるんだ」
Bremont Project Possibleが完結した今、ニムズはすでに次の目標を見据えている。彼はネパールのアマ・ダブラム(標高6,812m)へ直行し、Elite Himalayan Adventuresで山岳ガイドとして働く計画を立てている。
「生計を立てないといけないからね(笑)」と語る彼は、重い病を患っている母親が通う病院があるカトマンズに両親が住む家を建てたいと考えている(半身不随の父親はチトワンで暮らしている)。
「両親の老い先は長くはないから、一緒に暮らせるようにしてやりたいんだ」とニムズは語る。
では、その先の目標は? 家庭で過ごす時間をもう少し持ちたいと考えている彼は次のように語る。
「ここ数年、妻と私が一緒に過ごせる時間は長くなかった。この数カ月は非常に慌ただしかった」
ニムズは2019年10月29日にBremont Project Possibleを完遂し、世界最高峰全14座を世界新記録189日間で完全制覇し、そのうち6座で最速登頂記録を更新した。

Bremont Project Possibleの軌跡

フェーズ

標高

登頂達成日

1

アンナプルナ

8,091m

ネパール

2019年4月23日

1

ダウラギリ

8,167m

ネパール

2019年5月12日

1

カンチェンジュンガ

8,586m

ネパール

2019年5月15日

1

エベレスト

8,848m

ネパール

2019年5月22日

1

ローツェ

8,516m

ネパール

2019年5月22日

1

マカルー

8,481m

ネパール

2019年5月24日

2

ナンガ・パルバット

8,126m

パキスタン

2019年7月3日

2

ガッシャーブルムⅠ峰

8,010m

パキスタン

2019年7月15日

2

ガッシャーブルムⅡ峰

8,035m

パキスタン

2019年7月18日

2

K2

8,611m

パキスタン

2019年7月24日

2

ブロード・ピーク

8,051m

パキスタン

2019年7月26日

3

チョ・オユー

8,201m

チベット

2019年9月23日

3

マナスル

8,156m

ネパール

2019年9月27日

3

シシャパンマ

8,013m

チベット

2019年10月29日

ソース:Reddit