Tony GoGo dances on a street with trees in the background
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ダンス

ロッキングに影響を与えたダンスクルー&カルチャームーブメント

長年に渡りダンサーに愛されてきたロッキングの進化に関わってきた様々な人物や出来事の中から、ベスト5をピックアップして紹介する。
Written by Tracy Kawalik
読み終わるまで:7分公開日:
この45年間で、ロッキングはロサンゼルスのインナーシティのストリートから、美しい照明に照らされる『ソウル・トレイン』のスタジオフロア、そして世界中のバトルイベントへと拡大していったが、現在の世界的人気は、いくつかのカルチャームーブメントアイコニックなダンスクルーたちによって獲得できたものだ。
現代のダンサーたちが学んでいるロッキングの裏には、ロッキングをロッキングにしたパイオニアたちが存在するのだ。
ロッキングが40年以上リスペクトされ続けきた理由は、非常にスムーズなルーティンだけではない。コミュニティをひとつにまとめ、このダンススタイルをゲットーの外側へと押し出し、世界最高のサブカルチャーのひとつにまで高めたユニークなファッション&スタイルと逆境に負けない強い意志も含まれる。
今回はロッキングの歴史を作り上げたカルチャームーブメントダンスクルーを5つ紹介しよう。

The Lockers

1973年、Don CampbellとトップコリオグラファーのToni “Mickey” BasilThe Lockersを結成した瞬間、ダンスシーンは永遠に変わった。
伝説のダンスグループのひとつに数えられるThe Lockers(ザ・ロッカーズ / 元々は “The Campbell Lockers” と名乗っていた)は、ムーブのやり方からファッションまで、ロッキングのあらゆる基礎を作り上げた。
Greggory “Campbellock Jr.” PopeTony “GoGo” LewisFred “Mr Penguin” Berry(aka Rerun)“Fluky Luke”Adolfo “Shabba-Doo” QuinonesBill “Slim the Robot” Williamsのようなパイオニアたちで構成されていたThe Lockersは、エンターテイメント業界とダンス業界に嵐を呼び起こした。
『サタデーナイト・ライブ』『ソウル・トレイン』のような人気テレビ番組に出演し、ラジオシティ・ミュージックホールカーネギーホールのような有名ヴェニューで踊った彼らは、様々なショーや映画に出演しながら、それぞれがソロとしてのキャリアを築いていった。

GoGo Brothers(オリジナル)

The Lockersはメインストリームでの露出が多かったことから一般社会での知名度が高いが、ベテランストリートダンサーたちにオリジナルは誰かと訊ねれば、GoGo Brothersと回答するはずだ。
世界初のシンクロ・ロッキング・ダンスグループとして知られるGoGo Brothersは、1972年、バスケットボールの試合のハーフタイムに出演し、世界で初めてTV出演したロッカーとしてダンスヒストリーにその名を刻んだ。
Tony GoGo(トニー・ゴーゴー / 日本のGoGo Brothersの父親)、James “SkeeterRabbit” HigginsEdwin “Buddy GoGo” Lombardのトリオ編成だったオリジナルのGoGo Brothersは数多くのパフォーマンスを繰り広げ、彼らのロッキングは、The Lockers、Creative Generation、Something Specialなど、トップダンスクルーのルーティンに採用された。
尚、Tony GoGoは日本にロッキングを持ち込み、今の日本のロッキングシーンを作り上げた人物として知られている。

Wattstax

1972年、メンフィスのファンクレーベルStax Recordsがワッツ市民と組み、ワッツ暴動7周年を祝うために非営利のミュージックフェスティバルWattstax(ワッツスタックス)を開催した。
この歴史に残るイベントには、The Bar-KeysIsaac Hayesのようなレジェンドアーティストが出演したが、そのドキュメンタリー映像の中には、ロッキングのクラシックムーブのひとつ「ハンドシェイク」や初期The Lockersの姿も確認できる。
できるだけ多くの市民に参加してもらうために入場料金が1ドルに設定されていたこのフェスティバルは、「アフリカ系米国人からのウッドストックへの回答」と表現された。
ドキュメンタリー映像内ではThe Lockersのダンスが確認できるが、このフェスティバルは、ロッキングのダンサーを初めてポスターに採用したことでも知られている。また、コメディアンのリチャード・プライヤーの寸劇もフィーチャーされている1974年公開のこの映像は、ゴールデングローブ賞を含む複数の賞にノミネートされた。
フェスティバルとワッツ暴動後の一連のムーブメントにおけるロッキングの重要性について、Stax RecordsのオーナーAli Bellは、『ソウル・トレイン』ダンサーたちのロッキングと「ハンドシェイク」は、当時の自分たちの気持ちを代弁していたと語っている。
最後に、今回紹介しているこの映像(ドキュメンタリーの一部)のRufus Thomasのパフォーマンス中に映る赤いドレスを着ている女性(サムネイル)に拍手を送りたい。間違いなくこの映像のハイライトだ。

『ソウル・トレイン』

ロッキングは、Don Cornelius(ドン・コーネリアス)が司会を担当していた人気ダンス番組『ソウル・トレイン』によって、ローカルのブロックパーティやナイトクラブから全米、世界へと広がっていった。
この番組には、Don “Campbellock” Campbellをはじめ、ほとんど全てのロッキングのパイオニアたちが出演した。Don “Campbellock” Campbellは、自分がロッキングの生みの親で、『ソウル・トレイン』に絶大なインパクトを与えたと発言し、ダンサーにも同等の報酬を支払うべきだとして番組を降板したことで知られている。
いずれにせよ、この番組がきっかけとなって、出演していたほとんど全てのロッカーが、Tina TurnerMichael JacksonJames Brownなどのトップアーティストのコリオグラファーに抜擢されるなど、独自の成功を収めていった。
『ソウル・トレイン』は、今もそのユニークなファッションや音楽が影響を与えており、アトランタのヒップホップグループMigos「Walk It Like I Talk It」のようなYouTubeヒットを生み出し続けている。

Jefferey Danielのムーンウォーク

ダンスヒストリーの最重要モーメントのひとつに数えられる出来事が、1982年、英国の人気音楽テレビ番組『Top of The Pops』で記録された。
The Lockersのメンバー、Jefferey Daniel(ジェフリー・ダニエル)が “バックスライド”、別名 “ムーンウォーク” を初披露したのだ。
Danielが所属していたヴォーカルグループShalamarのシングル「Night to Remember」に合わせて披露されたこのダンスが瞬く間に大きな話題となったため、Danielは2週間後に同番組に再出演することになるのだが、同時にDanielはLa Toya Jacksonにその存在を認められることにもなった。
そしてLa Toya JacksonがDanielを実弟のMichael Jacksonに引き合わせると、DanielがバックスライドをMichaelに伝授し、Michaelがムーンウォークとして全米ネットのテレビ局で披露した。Michaelはその後もDanielと組み続けることになった。
尚、Danielは「自分が影響を受けた人物は?」という質問をされるたびに、ロッキングのゴッドファーザー、Don Campbellの名前を真っ先に挙げている。