ニュースクール前夜:ニューウェーブからハイエナジーを経て
JOMMY 今回は前回のMAKIDAIに続いて2回目になるんですが、ニュースクールを語る上でやっぱりBOBBYさんは僕の中で絶対に外せない。BOBBYさんと言えば、ニュースクールダンスシーンのトップオブトップ。そのBOBBYさんにお話を訊けるっていうのは、僕を含めて今も昔もダンスに携わった人間には、絶対タメになると思っています。改めて、ありがとうございます。
さっそくですけれど、まずはBOBBYさんのダンスへの入りや当時のディスコ/クラブシーンからアメリカ留学時代まで、ざっとお話を伺っていきたいと思います。
BOBBY 人に踊りを見られる意識をしたのは、中2くらいにディスコに行くようになってかな。俺は新潟出身なんだけど、中学の途中から東京と新潟を行き来する感じ。踊りでいうと、最初はロカビリーで原宿に行ってみたりするうちに、先輩にディスコに連れて行ってもらうようになって。
当時は時代的にはニューウェーブとかハイエナジーの時代で、自分もHIROもその後<MAHARAJA>で働くようになるんだけどね。ハイエナジーっていうのは、後にユーロビートになっていく音楽だった。14〜15歳くらいかな?中学生のころに通いだして、高校生の頃は正規で働けないからとりあえずバイトで働かせてもらって、学校を辞めた不良たちがスタッフになっていった時代だね。
※ 80年代のディスコブームを象徴する、当時を代表するディスコ。
JOMMY そこからヒップホップやブラックミュージックに入っていくんですか。
BOBBY 当時<MAHARAJA>ではハイエナジーが9割かかってるんだけど、高校の後半の頃にはRun DMCやBeastie Boysが1割くらいかかるようになってくるわけ。ヒップホップっていう言葉すら流通していなくて、ラップっていう認識だったけど。当時の向こう(海外)のチャートを賑わせていたし、DJもかけざるを得ないんだけど、一般の人は引いてくわけ(笑)。ワンレンボディコンのお姉ちゃんたちは引いていくんだよ。けれど、ラップで踊れる人に限ってめちゃくちゃキレイな人を連れてるんだよね。それを見て、ラップで踊れないと話になんねぇな、ああいう踊りが出来るとああいうキレイな女の人を連れて歩けるんだな、って。
時代はユーロビート全盛期だったけど、直感でこれからはブラックミュージックだ!って、六本木で米軍が集まるクラブに行きまくり。その後、さらに追い求めて横浜に出ていくんだ。六本木にいる黒人と横浜にいる黒人は全然違くて、六本木はスーツにオペラパンプスなんだけど、横浜はトラックスーツでゴールドネックレスにスニーカー、みたいな。ヘアスタイルもぜんぜん違くて、六本木はガンビースタイルが主流だったんだけど、横浜に行くと斜めにカットしてたり、ラインを入れていたりするわけ。レコードのジャケットで見ていたスタイルがそこにあったから、コレコレ!って、そこからは横浜の<CIRCUS>に入り浸り。六本木がR&B中心だとすると、こっちは9割ヒップホップ。時代的には、だいたい87年くらいだね。
JOMMY なんかBOBBYさんって今も昔も、「鼻が利く」という感じがありますよね。時代を捉えるのが早いというか。
BOBBY 鼻ね、天然で(笑)。
JOMMY でもそれって、結局モテるかモテないか、ってことじゃないですか。
BOBBY それは間違いないと思う。そのダンスでモテるかどうかが判断基準なわけで。自分が進んだ方向のほうが、ファッションもダンスもカッコイイって無意識に感じたんだと思うな。
それから黒人の友達が増えてきて、もっと上手いヤツらがいるっていうんで米軍横須賀基地の中にあるAクラブに連れてってもらったりして、そこでアメリカを疑似体験するわけ。そこでアメリカへの憧れが湧いてきちゃって、高校卒業する頃にはLAに行きたいって思ってたね。親にアメリカの大学に留学させてくれってお願いしたら、親戚がハワイにいたから、とりあえずハワイに行くことになった。
それでハワイに留学して、勉強そっちのけで毎日クラブよ(笑)。向こうでもバトルしまくって、いろんなやつらとバトルした後に仲良くなってハワイで一緒にショーをしたのが、ダンスで初めてお金をもらった経験かな。その時のショーメンバーは後にMCハマーのバックダンサーになって、自分は日本でZOOになるんだけど、運命の分かれ道だね。ハワイには2年半、その後LAにいくんだけどね。
ハワイから一時帰国した時に、<Fine>の撮影でHIROと出会うんだよ。<Fine>のモデルが友達だったから、日本にいるなら表紙の撮影に出ない?みたいなノリでさ。HIROと初めて会ったのはその時だね、よく覚えてる。バブル期だったから、当時のハワイって日本人がたくさん遊びに来ててさ。ダンスやってるって言うと女の子たちが「六本木<CIRCUS>のHIROわかる?」みたいな。向こうも「ハワイのBOBBYって知ってる?」みたいなのがめちゃあってさ、お互い「やっと会えたね」みたいな感じだった。
ZOOへの加入、J.S.B.の結成
BOBBY 当時アメリカは「Yo! MTV Raps」※が黒人の間で大人気番組で、学校が終わると、OAが始まる4時半に合わせてみんな家に真っ先に帰って毎日見まくってた。そんなある日、日本の友達が「日本でダンスブームが起きてる」って教えてくれて、「DADA」※のビデオを送ってくれたんだ。RICACOさんが司会してて、HIROとかLUKEが出てて、今の日本ではこんなにダンスが流行ってるんだ、って思ったね。
※ MTVが1988年から全米で放映を開始した、MTV初のヒップホップ専門番組。
※ テレビ朝日系列で1989年6月から放映が開始された「DADA L.M.D」。後に番組名を変えながら、1992年3月まで続いた。第一弾(MAKIDAI)のインタビューでは、この番組がダンスを始めるきっかけになったと語られている。
JOMMY その後、DADAのプロデューサーがハワイに丁度来たときにクラブでスカウトされて、逆輸入的に日本で活動を始めたとか?それでDADAでの活動がスタートして。
BOBBY DADAのプロデューサーのMr.Tっていう人がハワイに来た時にスカウトされて、DADAのコンテストに出てみないかって言われてさ。優勝賞品がハワイ往復チケットとダイヤモンドだっていうから、タダで帰国できるなら、ってついて行ったわけ(笑)。そしたら日本のダンスシーンがすげぇ盛り上がってて、何かの予感がめちゃくちゃしたのね。この日本のブームを逃すと後悔するかもなって。日本を出てハワイに行く時に、日本もこうなってほしいって思ってたから。実際、ダンス番組もその後どんどん増えていくんだけど、最初はテレビ朝日がDADAで、その後にフジテレビが「ダンス!ダンス!ダンス!」、日テレが「ダンス甲子園」、って続いていく。民放3局でダンス番組が流れるくらい、ダンスが流行っていた時代。
最初は2週間くらい日本にいようと思ってたんだけど、そん時にHIROと意気投合ちゃって、DADAのチャンピオン大会で優勝してそのままZOOに入って、そのまま東京に居つくんだ。で、メジャーのZOOとは対照的に、アンダーグラウンドのチームを作ろうよってHIROと作ったのが後のJ.S.B.なんだよね。自分がアメリカにいて本場の流れを知っていた自信とか、自分のチームがMCハマーのバックダンサーとしてスカウトされたっていう自信があったし、日本でライブをする黒人アーティストのライブには全部出てやろうぜって。アーティストが来日するたびに直談判して、「俺ら出せ」みたいな(笑)。ZOOは日本で有名だったから、J.S.B.はアメリカで有名にしたかった。
日本に来るアーティストって、俺たちがホームにしていた六本木の<CIRCUS>に必ずプロモーターが連れて来ていたから、そこで待ち伏せして、ダンサーたちと確実にバトルになるわけよ。それで仲良くなって「明日コンサートあるから出ろよ」みたいな流れで毎回出てた。Bell Biv DeVoeの日本ツアーも<CIRCUS>がきっかけで出たし、Japanese Soul Brothersっていう名前はBell Biv DeVoeのMichaelがキッカケだね。、その後Michaelたちがアメリカに帰った後に、「日本にはJapanese Soul Brothersっていうイケてるダンサーたちがいるぞ」って噂を広めてくれていたんだよね。
当時の一番のターゲットはBobby Brown。これは外せないでしょ。日本に来たときにサーカスで待ち伏せしてさ、「俺もBOBBYって言うんだぜ」って言ったら、「お前がJapanese Soul BrothersのBOBBYか!ハリウッドで噂になってるぞ、明日の2時半に横浜アリーナ来い」って、そのままジャパンツアーを一緒に回ったんだ。Bobby Brownも、Michaelの噂を聞いた一人だったってわけだね。ちなみにBobby Brown自身がツアーの時に「J.S.B.」っていうチーム名で俺たちのことを紹介してくれたのが、J.S.B.っていう呼び方のキッカケ。その後USツアーにも行く予定だったんだけど、それはさすがにZOOの社長に怒られちゃって行けなかった。
JOMMY その時って、どっちかっていうとメジャーの仕事よりも夜(J.S.B.)の仕事がメインな感じですか。DADAの収録とかサボったりしてたって聞いたことがあります(笑)。
BOBBY ZOOはもちろん仕事としてちゃんとやってたけど、頭の中ではJ.S.B.で世界行くぜ!それしか考えてなかったね。
90年前後ってバブル全盛期で、街全体が毎日土曜日みたいだった。毎日朝までクラブにいて、日サロで朝から昼まで焼くのが睡眠。それから昼は渋谷や原宿でキャーキャー言われて、夜は六本木に戻る生活。
JOMMY その頃の東京のダンスシーンはどういう感じだったんですか?
BOBBY 東京のダンサーの遊び場は当時二分されていて、六本木派と新宿派みたいに分かれていて、渋谷はまだなかったね。SAMさんとか、ジャズダンサーやオールドスクールの人たちは新宿で、六本木はヒップホップダンサーが中心だった。番組のイメージでいうとDADAが六本木で、ダンス!ダンス!ダンス!は新宿って感じ。とにかく六本木のクラブは半分以上が黒人だし、本場のアメリカに近かったね。俺もホームは六本木だったけれど、日曜日は新宿の<センチュリー>に新宿ダンサーが集まっていたから、俺もよくバトルしにいってた。日本のハウスダンス第一人者のKOJI君は、元々新宿から六本木に寝返ったみたいな感じ(笑)。街によってファッションも女の子も全然違うんだよね。その後<GOLD>が出来てまた地勢が変わるんだけど、それはもうちょっと後だね。
当時の六本木って冗談抜きで数百件のクラブがあったし、毎日毎晩パトロールして回っていたから、ダンサーの立ち位置って遊び人の最先端だったわけ。色んな流行りをダンサーが作っていってた時代。
LAスタイルとの邂逅、そしてLAへ
JOMMY そうして徐々に90年代のニュースクールを迎えて行くわけですけど、その入りはどんな感じの流れだったんですか?
BOBBY 90年代に入って、ある日DADAのゲストとしてLAで活動していたHIROKOさんが出演するんだよね。その時にLAの一流ダンサーたちが一緒に来ていたんだけど、初めてLAスタイルのダンスを目の当たりにして、一気に仲良くなったんだ。ハワイに住んでいた頃からLAって身近だったし、次はLAに行こうって思ってたのもあったし。
あと、その頃新潟に<HERALD>っていうクラブがあったんだけど、そこに3ヶ月更新の契約でLAのダンサーたちが来ていて、当時俺たちがまだサルエルでいた頃に、そいつらはドレッドで柄シャツ着て、動きも全然違かった。その新しさにまた食いついちゃって、仲良くなって2週間くらい新潟に居残っちゃったんだ。そいつらの家に泊まって一緒に生活して、東京戻ったらDADAのチャンピオン大会にそのスタイルで出てさ。HIROたちに「コレで行くよ」みたいな電話したのを覚えてる。それがニュージャックスウィングからLAのホーシングスタイルにシフトしていくキッカケかな。
ファッションもボックスヘア&チェーン&トラックスーツから、ドレッド&アフリカンペンダント&柄シャツ&デニムに杖っていうふうに一気に変わっていった。
当時DADAでやっていたことが瞬く間に日本中に広まっていたから、それを楽しんでいたし、ダンスのスタイルもファッションもアンテナを張りまくって、新しいものをどんどん日本に紹介していたね。
JOMMY 新潟、凄いですね、東京よりも早い。
BOBBY LAのダンサーって流行が早かったし、タレント揃いなんだよ。HIROKOダンサーズ(242)のメンバーがその後のPharcydeになっていったりするし。その頃一番チェックしてたビデオはHerb Alpartの「North on South St.」(1991年)なんだけど、このビデオにはLAのトップダンサーたちがみんな出ているんだよね。あとはDef Jefの「Droppin’ Rhymes On Drums」かな。このMVにはSoul Brothersが出演している。
こういうダンスの流れもそうだし、メインストリームでもN.W.Aとか、この時代のヒップホップの流行はLAが主導権を握っていたから、もうLA行くわ!ってなったんだ。
BOBBY 最初にLAに行ったメンツは、HIRO、LUKE、NAOYA、俺の4人。Skeeter RabbitとPoppin’ Pete※が東京に住んでた頃<CIRCUS>へ毎日遊びに来ていた縁で仲が良かったから、Peteの家に泊まったりしたね。泊まれっていうけど本気で危なくて怖い地区だった。LAのヒップホップクラブではいつも発砲があったし、人もよく死んでたし。
※ どちらもPoppin’を世界中に広めたLAのオリジネータークルー、Electric Boogaloosのメンバー。
その次にLAに行ったのは大所帯で、当時の日本のトップダンサーたち20人くらいで行ったんだ。当時のDJ YUTAKAさんってLAでもの凄い立ち位置にいて、俺の大好きなラッパーたちがみんなYUTAKAさんにゴマすってるんだよね。Public EnemyからN.W.Aのメンバーから。平気で「今からIce-Tの家行くぞ」みたいな。しかも黒人相手にバリバリ喧嘩するし。それでYUTAKAさんの家に居候して毎日黒人と暮らしていたね。YUTAKAさんと街を歩いていてダンサーっぽいヤツを見つけると「お前らダンサーか?こいつら日本から来た有名なダンサーなんだけど、今からバトルしろ!」って司令が出て、現地のダンサーとも街でよくバトルして鍛えられたね。それまで自分が一番ジャパニーズ・ニガーだって自負していたんだけど、YUTAKAさんには全然敵わなかった。
当時、ZULU NATIONが主催で、YUTAKAさんがレジデントを務めていた2〜3000人規模のUNITED NATIONっていうパーティーをやっていて、そこにはDr.Dreも普通にいるし、踊ってるダンサーなんてみんな俺が憧れていた奴らばっかり。で、ある日YUTAKAさんからイベント前日に「お前ら明日UNITED NATIONでショーやれ!」って言われ、即座に練習開始(笑)。Crazy-A & The Posse、俺ら、コボージーズでJ.S.B.としてショーをしたんだけど、実際ステージに出ていったらブーイングもヤバいし、踊っていても平気で杖で邪魔してくる。それでも必死で踊り切って、ショーの後もずっとバトルしていたら、憧れのダンサーたちと意気投合したんだ。次の日、街を歩くと「お前らがJ.S.B.か?」って聞かれるのよ。UNITED NATIONって改めて凄いイベントなんだなって思ったね。向こうのアーティストの間でも一気にJ.S.B.の名前が売れたんじゃないかな。
ダンス的にはそのあたりでホーシングとかジャイブを覚えたてっ感じかな。そういうのをDADAに持ち帰ってきてカマしたよね。
NYスタイルへの傾倒と、ニュースクールレジェンドたちとの出会い
JOMMY その後もうNYに目線が移っていくわけですけど、日本でLAスタイルが流行り始めた頃には、BOBBYさんはもう次の所を見てるみたいな感じですよね。
BOBBY 91年頃にみんながLA、LAって言ってる裏で、俺はもうNYしかないなってなって思ってた。最初に注目していたのはやっぱりFendiとShake※だね。Fendiはヤバいよね。「RAP MANIA※」とか観てて、自分は無意識にLAからNYシフトしていた。
※ それぞれEPMDやGUYなどのバックダンサーなどを務めた、90年代の伝説的なダンサー。
※ 1990年にNY Apollo TheaterとLA Palaceで同時開催&中継された、伝説的なヒップホップイベント。
最近Netflixの「ヒップホップ・エボリューション」シーズン2が公開されて、当時のヒップホップの盛り上がりがLAからNYに移り変わっていく話をやってるんだけど、めちゃくちゃ面白いよ。当時の感覚は間違ってなかったんだっていう答え合わせにもなったし、実際その後はNYのサンプリング全盛期、プロデューサーで言えばLarge Professor、Pete Rock、DJならKid CapriとかRed Alert、Funkmaster Flexあたりの時代に入っていく。
JOMMY 具体的にNYへのファーストタッチはどんな流れだったんですか?
BOBBY 自分が何かしら次を探していた頃、<CIRCUS>の店内の映像とかJ.S.B.のショーの音楽を担当してくれていたDJ KENSEIが「BOBBYが好きそうなビデオあるよ」って、あるMVを見せてくれた。それがLalah Hathaway「Baby Don't Cry」(1990年)だったわけ。そこでパカーンと感じるものがあって、コレだわ次は!って。でも踊っているのが誰かは全く知らなくて。スーツ着て、スローで、R&Bでさ。どうやらNYのダンサーらしいってことだけは情報掴んで、本物を見たいってNY行くんだよ。
BOBBY 俺がNYに行くちょっと前、91年後半にHIROとLUKEが雑誌の取材でNYに行ってて、向こうの<RED ZONE>っていうクラブでEjoeやCaleaf、Link、Voo Doo Rayといったベビドン(前述の「Baby Don't Cry」)ダンサーたちやDJのKlerk Kent、Red Alertあたりと実際に会ってくるんだ。そして92年の春、俺も含めてZOOのMV撮影に行くんだけど、当時<KING STREET>っていうハウスのレーベルをやってたヒサ石岡さんが色々コーディネートしてくれて、その時にNYの有名なダンサーを全員呼んでくれたんだけど、それで来たのがさっきのメンツ全員で、バッチリじゃん!って。噂で「(Buddha)Stretchってヤツがキングだよ」っていうのは聞いてたんだけど、そのBuddha Stretchだけは残念ながら居なかった。
JOMMY ベビドンがキッカケでNYに傾倒したのが91〜92年ってことですよね。ここからいわゆるニュースクールドンズバの、NYらしいトコロに入っていきますよね。僕もそのくらいからダンスシーン入っていくんですけど、NY時代のダンスとファッションの関係ってどんな感覚だったんですか?
BOBBY当時は誰がヒップホップシーンでファッションの先導者かって言えば、ダンサーだったんだ。今は当時からしたら考えられないくらいダンサーがダサくなっちゃって、めちゃくちゃ悲しいね。要するにその頃って、トレンドを作っていたのがダンサーで、ラッパーやストリートがみんなダンサーのマネをしていた時代。
JOMMYクールでイケてるダンサーをつけるのがラッパーのブランディングだった感じですよね。
BOBBY この時代なら例えば<GUESS>や<ジルボー※>を流行らせたのはダンサーのFendiだったし、<POLO>を流行らせたのもダンサーだったし、そういうブランドを盗んでダンサーがいち早く身に着けていたんだよ。
※ フランスのファッションブランド、マリテ+フランソワ・ジルボー
この少し前の時代に、Dapper Danがハーレムで<Gucci>や<Louis Vuitton><MCM>といったハイブランドのニセモノの生地を使って服をオーダーメイドで仕立てて、ラッパーとかダンサー相手に売っていた。それに有名なラッパーたちが目を付けて大旋風が起きた。ラッパーもダンサーも本物を買うお金はなかったし、Dapper Danのデザインっていうのはド直球のヒップホップを感じるものだったわけ。自分もそれを探しに<Gucci>や<Louis Vuitton>に行ったけど、みんなが着ているようなものは一切ないわけよ。探しているものがニセものだから当然なんだけどね。本物よりもDapper Danが作ったニセモノを手に入れることのほうが価値があったし、圧倒的に大変だった(笑)。今やそんな彼がGucciのオフィシャルラインをデザインするようになったっていうのも、感慨深いし、素晴らしいと思う。
当時は俺もお金が無かったから、日本のショップのバイヤーを兼ねてNYに行ってて、2週間NY、2週間東京っていうのを繰り返す生活をしていた。日本で買えなかった<POLO>とか<GUESS>、<ジルボー>、<The North Face>、<Timberland>、<Air Jordan>、<Air Force 1>あたりはめちゃくちゃ需要があったし、自分も欲しかった(笑)。ストリートはやっぱり<UNION>が強くて、初期はスケーター色が強かったけど徐々にヒップホップ色を強めていった感じ。その頃からNYに住んでいる後輩でKEN SPORTっていうプロデューサーがいるんだけど、サンプリングの元ネタを集めた彼のミックステープが<UNION>で独占販売されていて、NYで相当話題になっていたんだよね。その流れで<UNION>のJames※とも仲良くなって、日本で広めて欲しいってことで、初期の<Supreme>を日本のショップとか友達に送ったりもしていたね。日本に正式に入ってくる全然前の話だけど。その<Supreme>が今やあの<Louis Vuitton>とコラボしてるんだから、全く凄い時代だよ。
※ <UNION>オーナーであり、<UNION>のオリジナルブランドとしてスタートした<Supreme>の創設者でもあるJames Jebbia。
1992年のNY、<POLO>の衝撃
BOBBY いわゆる<POLO>ブームを目の当たりにしたのは、さっき触れた92年の春の出来事。
当時、NYで年1回春にNew Music Seminar(NMS)っていうイベントがあって、実は「ALIVE TV」※もNMSの一環なんだ。NMSはパスが2週間で2〜300ドルなんだけど、世界中からレコード会社の関係者が来て、毎晩どこかしらのクラブで新人がライブするっていう、要するに街全体で行う新人発掘オーディション。今はマイアミのWinter Music Conference(WMC)に代わっちゃったけど、マイアミWMCをやるようになってからサウスヒップホップが流行したよね。だから当時のNMSも、凄く影響力があった。Das EFXやBlack Moon、Black Sheep、Leaders of New School、Wu-Tang Clan、A Tribe Called Quest、Pete Rock,錚々たるアーティストたちがみんなライブをやっていた。
※ 「ALIVE TV - Wreckin' Shop Live From Brooklyn」として1992年にPBSで放映された伝説的なヒップホップドキュメンタリー。Mop Tops(後のElite Force)やMisfitssなど、錚々たるNYのトップダンサーたちが出演している。
<POLO>のムーブメントを初めて見たのは、<MUSE>っていうクラブに行った時。運動会やってんのってくらい、みんな赤白帽に「1992」のゼッケンなわけ。バルセロナオリンピックモデルで、「USA」とか国旗のモチーフバリバリみたいな。その数ヶ月前にHIROたちが行った時には誰も着てなかったから、その間に何があったのかってくらい、92年の衝撃はデカいんだよ。まぁとにかくめちゃくちゃカッコよく見えて、何だコレ!って。
JOMMY その頃、ヒップホップファッションとして<POLO>の概念はあったんですか?
BOBBY 馬の<POLO>はあったけど、オーバーサイズじゃなかったし、そこには興味がいかなかった。だからこそ1992年の<POLO>はコレ何よ、馬じゃねえじゃん、みたいな。そのまま寝ないで買いに行ったけど、あのシリーズはNYでは全部売り切れてた。HIROが白のキャップだけゲットしてたけど。買えたらラッキーだよね、ホント。<Macy’s>に入ったら誰がイチ早く見つけられるか勝負みたいな(笑)。ヨーイドンで店内に手分けするわけ。
スニーカーで言えば<Air Jordan>の6か7の時代かな。<Air Max>なら90〜92で、<Air Force 1>もマスト。<Timberland>のイエローヌバックやスーパーブーツもこの時代から履いていた。<FILA>もめちゃ流行ってた。リッチな象徴なんだよね。Tommy Hilfigerの自伝には「92年のNYにおける黒人のシーンに決定的に影響を受けた」って思いっきり書いてあるんだけど、それくらい衝撃的だった。音楽的にも、今も聴かれてるお決まりのヒップホップアンセムってほぼ92年でしょ。まさにヒップホップ黄金期!とんでもない年だよね。
JOMMY <POLO>自体のブームっていうのは、BOBBYさん世代からすると長くはなかったんですか?
BOBBY う〜ん、意外と長いと思うよ。ラインとしてはバルセロナモデルからSUMMERやアメリカンズカップ、ベアー、HIGH TECH、カントリーと続いて、<POLO SPORT>までは続いたかな。かなり経ってから、90年代中盤くらいに<RRL>が出てきた。
JOMMY その当時のヒップホップダンサーのファッションアイコンって、誰になるんですか?
BOBBY やっぱり<POLO>といったら、Prancer、Kito(ともにMisfitss)とか、Zhiggeとかだよ。あとは(Buddha)Stretchも半端なくオシャレだった。彼の教えとしては「究極のBboyを目指せ」なんだよね。ファッション、音楽、ダンス、3つ全てのセンスにおいて隙間なく完璧にならないとダメよってコト。
ダンサーのための場所、MAIN STREET
BOBBY その92年にNYに行く直前にZOOを脱退して、同じ頃にDADAが終わってね。今でいうダンスシーンっていうのはその頃日本にまだ無かったから、日本にダンスシーンを作りたいっていう思いが自分の中に芽生えはじめていたんだ。そこからRAHA、KANGO、IMAEDAたちとMAIN STREET※を始めたんだ。ここから現在のダンスシーンが始まった。
※ 1992年12月から始まった、日本のストリートダンスシーンに決定的な影響を持ったイベント。
ヒップホップが響くデカい箱で、選ばれたチームが踊ったりライブするっていうのは、NYやLAで体験したクラブのイメージが完璧に影響しているね。それまではTVを通じて影響力を持っていたけれど、そこからはダンサーのために、日本中のダンサーがそこに行かないと遅れを取るような場所を作っていった。行けば安心して1年過ごせるけど、次のMAIN STREETに行くともう次の新しい世界が待っている、みたいな。
JOMMY 当時ってダンスを教える人も数えるくらいしかいなかったから、東京の最先端行くならBOBBYスクールかIMAEDAスクールしかない、みたいなところありましたよね。今でこそこうしてお話出来ていますけど、当時はこんな距離感でBOBBYさんと話すって考えられなかったですね。それくらい影響力というか、存在が凄まじかったです。
BOBBY 今ほどラッパーもいなかったから、ヒップホップシーンを作っていた感覚だったよね。(シーンに)入るには、メチャクチャ壁が厚かったと思う。みんな入りたいんだけど、(シーンの)トップのほうには、そう簡単には入っていけなかったじゃん。その頃のヒップホップってアツかったし、ちょっとでもダサかったら毛嫌いされていたし、シーンに入るには相当な勇気とか実力が無いと入れなかった。
ヨーロッパが持つヒップホップ精神への共鳴
JOMMY そしてMAIN STREETでシーンを作りつつ、次はBOBBYさんがヨーロッパに(興味を向けて)行く流れを教えてください。
BOBBY OK。95〜96年くらいかな、USヒップホップの音がだんだん踊りにくくなってきちゃったんだよね。俺たちがそれまで聴いていたヒップホップは黒人が黒人相手に作った黒人専用の音楽だったけど、だんだん売れてきちゃって、全世界全人種に向けて作るようになってきたというか。要は商業的で大衆向けになったことで、何かノリ悪くね?とか、媚びてね?みたいな感覚が芽生えはじめて、ダサく聴こえるようになってきたんだ。
自分の中でアメリカに最新の音楽を求められなくなってきた96年に、アムステルダムとロンドンに新しいものを探しに行ったんだけど、アムステルダムのクラブでたまたまFatboy Slimのイベントを観たんだよね。全く新しいブレイクビーツの音楽で、ビッグビートって呼ばれていた。そこで数千人のお客さんたちが熱狂して踊っているっていう光景が衝撃的で、ここでダンスのショーをしたいって思ったんだ。
で日本に帰ってきて、さっそく家にBABY NAILとかJOMMY、DARUMAを集めてProdigyとかDaft Punkのビデオ見せて「次はコレで行くよ」みたいなことを宣言してたよね。
JOMMY 僕らとしてはそういうBOBBYさんを見ていて結構複雑で、「ヒップホップ面白くねぇよな」みたいなことを言うもんだから、「え!」みたいな(笑)。そのタイミングでBOBBYさんがどんどんヨーロッパに行くじゃないですか。こっちはまだヨーロッパ見えてないですし。
BOBBY その頃、頭の中は完璧にヨーロッパ。
ヨーロッパの音楽って、ブレイクビーツとかビッグビートもそうだし、ドラムンベースとかトリップホップも、もの凄く新鮮に聞こえた。東京にもその頃<Mr.Bongo>っていうロンドン発のレコード屋が出来て、<Mo’Wax>とかアングラのレーベルが揃っててめちゃくちゃ行ってたね。DJ Shadowを知ったのも<Mr.Bongo>で、彼の「Organ Donor」を使って98年のMAIN STREETでJ.S.B.がショーをしている。
JOMMY ヨーロッパの新しい音楽にグッと引き寄せられた根本的なところって何だったんですか。
BOBBY 実はヒップホップの前はヨーロッパのパンクとかニューウェーブが好きで、ロンドンのSex PistolsやMalcom McLarlenが好きだったんだよね。だから、こっち(ヨーロッパ)のアーティストが実験的な音楽でチャートを席巻していく姿に、よっぽどクリエイティブな精神を感じたんだと思う。その精神が、俺的にはヒップホップの感覚だったんだよね。
ちなみに、中学の時に教科書のようにレーザーディスクで観ていたElectro Rockっていうイベントもかなり実験的なヒップホップのショーなんだけど、それもロンドンのイベント。
ヨーロッパのアーティストたちと話していると、「俺らはアメリカと同じことをやっても勝てない。アメリカのヒップホップを崩して自分たちのスタイルにしているんだ」って言うんだよね。それがカッコいいな、面白いなっていう。
「今あるものをよりカッコよくしよう、オシャレにしようとしている意識、俺はそれが今のヒップホップだと思う」
JOMMY そこからファッションの捉え方もどんどん変わっていきますよね。
BOBBY うん、要は今まで自分の中にはモデルがいて、それをミックスして自分を作り上げていたんだけど、これからはモデルじゃなくて、自分が発信源になろうっていう意識に変わっていった。ヨーロッパに行くようになって色んな刺激を自分で受けて、それまでビッグサイズでXLを着ていたのからSサイズを着るようになっていったり、スニーカーも洋服もUK別注とかヨーロッパ別注にこだわり始めたり。ヨーロッパ別注になると色味もネオンカラーを取り入れていて新鮮だったんだよね。そういうテイストっていうのは現代のストリートファッションシーンのデザインにも繋がっているんじゃないかな。
JOMMY 最近のファッションの話で言うと、BOBBYさんて相当前から「Virgil Ablohってヤツに注目しとけ」って言ってたじゃないですか。やっぱVirgilもそうですけど、ヒップホップ一辺倒じゃないところに何かを感じるんですか。
BOBBY うん!インテリ黒人(笑)。アート、建築、4つ打ちの音楽…彼が影響を受けたものが俺も好きで、彼のやることは昔から凄く共感できたし、影響を受けたものにヒップホップといういうフィルターをかけて、世界に向けて新しいものとして発信しているところが凄く面白いんだよね。俺はそれがニュー・ヒップホップだと思うよ。
自分も、仲間たちを世界のトップに引っ張り上げられるような人間になりたいと思ったね。
JOMMY 去年久々にパリコレに行って感じましたが、パリがアメリカみたいになってましたね。Virgilの<Lous Vuitton>のファーストショーのタイミングだったから特に、そこらじゅうにアメリカの有名ラッパーが居ましたし、年々そうなってる感じがありますよね。
もちろんVirgilって凄いアイコンですけど、僕らは日本で生まれて日本で育って、BOBBYさんの存在っていうのが自分がダンスや音楽、ファッションに携わることの土台になっていて、BOBBYさんが居なかったらここに座っていないとすら思ってるんです。だからこそ、BOBBYさんが考えていることやってきたことって、下の世代にもっともっと伝えていきたいと思いますね。
JOMMY ちょっと話が戻りますけど、80年代後半〜90年代初頭って、Major Foceに代表される原宿のシーンとも並行しているわけですけど、そっちの人たちとのリンクはあったんですか。。
BOBBY もちろん、TINY PANXは聴いてたよ(笑)。あまり接点は無かったけど、唯一芝浦の<GOLD>ではよく一緒になってたね。当時仲良かったダンサーのKENBOやNUTS BOYSのみんなは(高木)完ちゃんのバックダンサーをやってたし、自分たちも完ちゃんと一緒にツアーを回ってたから、交流はあった。
原宿とかスケーターのシーンで言えば、江川(”Yoppy” 芳文)はZOO時代から一緒にレコード屋回りしたりとか、他にもシンちゃん(Sk8thing)は同い年で共通の友達が多くて、昔から仲良くさせてもらってる。
JOMMY 今時代が巡って、またどこかのタイミングで合流したり組んだりしたらめちゃくちゃ面白そうですよね。
BOBBY 昔からそれは思ってるし、それが起きたら半端ないと思うね。当時からお互いに凄く風格あったしね。
JOMMY 僕からすると、チャンネルは違うけどBOBBYさんと(藤原)ヒロシさんがやってることって似てるなっていう印象はあるんですよね。プロデュース力っていうか、時代感をキープしつつ、自身のフィルターで発信する感じが共通しているなって。
BOBBY 光栄だね(笑)。お互いストリートという意味では一緒かもね。例えばHIROはメジャーで俺はアングラだけど、お互いストリートだし。
「常にアンテナの感度を100にしておけってこと」
JOMMY 今回は<ニュースクール>をテーマに色々お話を伺ってきたわけですけれど、これからBOBBYさんとして伝えていきたいことはありますか。
BOBBY<好きこそ物の上手なれ>。好きっていう気持ちは究極だし、好きなことは何事も半端じゃイヤなんだ。とにかく、生活していて関わるものはすべて完璧にしたい性格なんだよね。何でもトップが気になるし、それを基準に物事を考えるようにしている。
自分は自分でも、最強のミーハーだと思う(笑)。だから流行に関しては誰よりも早くキャッチしたいし、作りたい。それも好きでやってるから、何一つ苦じゃないわけ。楽しくてやってるんだから。その為にはどこまでも飛んで行くよ。ピース!

