ダンス

第三回 MASAH(スタイリスト/ディレクター)|東京ニュースクール:知られざるアンダーグラウンド

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Written by Red Bull Japan
90年代からおよそ00年代初頭にかけて、音楽やカルチャー、ファッション、そしてダンスが密接にリンクした<ニュースクール>と呼ばれる超重要な時代を、全6回シリーズで掘り下げる連載<東京ニュースクール>。第三回目は、当時のシーンと今のファッションシーンをつなぐスタイリストで、自身のブランド<SEASONING>を手がけるMASAHが登場。
MASAH&JOMMY
MASAH&JOMMY

MASAH、ヒップホップとの出会い

JOMMY <東京ニュースクール>の連載も今回で三回目。今回でMASAHさんようやく登場です(笑)。この連載は90年代〜00年代初頭にかけてのヒップホップや、それにまつわる<ニュースクール>カルチャーについてのインタビューシリーズなんだけど、まず、MASAHのヒップホップカルチャーについて聞きたいと思っている。MASAHのヒップホップへの出会いや入り口についてはどういう感じだったの?
MASAH 逆にJOMMYって、どういう入りだったの?
JOMMY 俺はダンスだったね。地元の高校の先輩がダンスをやっていた影響で。意外とMASAHのそういうことろって知らないんだよね。
MASAH そうなんだ。僕の場合は『ダンス甲子園』だったり雑誌とかをパラパラ見ていて、いつの間にかっていう感じだったかも。『ダンス甲子園』のファッションや曲の影響はやっぱり強かったのかもしれないけど、コレ(ヒップホップ)でいく!みたいな明確な影響では無かったし。出身が青森なんだけど、ねぶたの太鼓の音とかがルーツとして影響しているのかな、とかも思うけどね。
タイミングは、具体的にいうと中学の頃。なんかこう、思春期で男子としてのカッコよさに目覚めた時に、もちろん周りにはいろんな友達がいたんだけど、どれもちょっと違かったんだよね。CDレンタルショップに行って、『ダンス甲子園』で流れていた曲を探したいんだけど、何も情報がないからとりあえずジャケットが黒人のCDを根こそぎ借りてダビングしたりとか。当時からなぜか黒人の文化っていうのに惹かれていたね。サッカーをやっていたんだけど、その時好きだった選手も黒人選手だったし、ユニフォームも原色っぽいのが好きだったりとか。周りのみんながロックにハマった時に、全く反応できなかった。
JOMMY MASAHって地元は練馬じゃん?その後、渋谷のレコ屋とか服屋とかに出入りしていくと思うんだけど、そのあたりの一連のショッピング事情だったり当時ツルんでた仲間っていうのはどういう流れだったの?
MASAH カッコつけだした頃に仲間はいたけど、アメカジとかもいて、テイストはバラバラでツルんでいた感じだった。買い物に行く範囲で言えば成増とか光が丘とか、いわゆる地元のちょっとしたインポート買い付けの小さなショップ的なところ、みたいな。
ファッションへの目覚めで決定打だったのが、ある日東武東上線に置き去りになっていた『Boon』に出会ったこと。お店もそうだし、ブランドの情報とかも、こういうものがまとめて載っている本があるんだ!っていう衝撃みたいな。『Boon』でさ、僕が好きだったスタイルの紹介で、そんなに数は多くないんだけどちょっとだけ「ヒップホップ」って書かれてて、何これ?みたいな。ヒップホップっていうのかな?ってなって、それから毎月コンビニで雑誌を漁るようになった。でも簡単には買いに行けないし、お金的にも買えなかったけどね。結果的にヒップホップっていうんだ、っていうことを知ったくらいで、ヒップホップって何かとか、ラップって何かとか、全然分かっていなかったけど。
今思えば小学校時代もサッカーに全て捧げていたけど、ユニフォームをわざわざ御茶ノ水に買いに行ってたりして、何年モデルのユニフォームじゃん、みたいな。手に入れたいものを手に入れる、みたい感覚はその頃から養われていたのかもね。今と行動が変わんないんだよね(笑)。
JOMMY そういう意味では、ダンスが入り口とかヒップホップが入り口とかではなかったんだね。面白いね。
MASAH 最近のスノボもそうだけど、まずはカタチからなんだよね。
MASAH
MASAH

メンターMUROとの出会い、そしてヒップホップシーンへ

JOMMY 俺とMASAHが出会ったのって、自分のストーリーとしてはちょっと後期だったんだよね。その時はMASAHはわりと先輩世代のヨウノスケ君とかハットリ君たちの中に堂々といたから、先輩なのかなって思ってたら実際は一個下だったっていう。先輩と負けず劣らずの身なりもしてたし、俺ら同世代からしたらファッション感度ってかなり高かったよね。
MASAH JOMMYたちよりも、BOBBY君とかのほうが(出会うのが)先だったんだよね。
実はヒップホップに本格的に踏み込んだのは、YOUさん(YOU THE ROCK)なんだよ。サッカーで入った高校が国士舘だったんだけど、家からの通り道に渋谷がある。当然サッカーも忙しかったんだけど、時間があれば渋谷も散策。その頃ってファイヤー通りにヒップホップのお店が結構たくさんあって、MUROさんがやっていた<スターリッチ>っていうお店の前でYOUさんがミックステープを売ってたんだよね。
通(かよ)って話してるうちに日本語ラップの存在を知って、『ダンス甲子園』でダンサーの存在は知ってたけど、ラッパーで日本人がいるっていうのが衝撃的だった。それからはYOUさんにMUROさんを紹介してもらって、レコード持ちをやらせてもらいながら一緒に営業を回ったり。それこそDJ WATARAIさんとかDEV LARGEさんとかと一緒の時もあったりして。サッカーもサボらないで頑張っていたけど、楽しみといえば毎週金曜のパーティーに行くことだったね。
高校卒業間際にマンハッタン(・レコード)でバイトすることだけは決まって、洋服出すって話もあったから通販部で働いてたんだけど、お店にはもちろんMUROさんもだし、ダンサーたちがどんどん来るわけ。日焼けしてドレッドして、派手な垢抜けた人たちが来て、カッコいいなぁ〜なんて思ってた。
そんな感じである日現れたのがKOYA君で、色々話していくうちにどんどん仲良くなっていくんだ。KOYA君はすごくオシャレで、一緒に買い物に行ったりイベントに遊びに行くようになったりするうちに、BOBBY君とかダンサー周りの先輩たちと結果的につながっていくんだよね。
JOMMY へぇ〜、それは初めて知ったかも。それでちょいちょい顔合わすようになって、いつしか遊ぶようになったもんね。俺はMASAHと初めて出会った日って覚えてるけどね、渋谷の明治通り沿いでバッタリ、先輩たちと現れてさ。
MASAH <CAVE>※によく行ってたからその前かもね。まだ<HARLEM>が始まるかどうかっていうくらいじゃないかな。JOMMYもベタなクラバーではなかったと思うね、ジャンルもハウスっていうイメージがあったし。MAKIDAIとか表に出る組に比べたら、一歩引いた感があって今に至るんじゃないかな。僕もどっちかというとJOMMYに近くて、みんなはガンガン遊んでいたけど、堅いバイトしたり、将来のことを考えたりしてた。
※当時渋谷にあったクラブ。須永辰緒、高木完、川辺ヒロシ、DJ KENSEI、DJ KEN-BOらがプレイしていた。
JOMMY MASAHは将来的なことに関しては、ホントしっかりしてたよね。
MASAH やっぱり、ちょっとした劣等感があったのよ。ダンサーでもラッパーでもDJでもないし、MASAHはカッコだけじゃんって思われてるんじゃないかって。しかも僕は徒党を組まないじゃん。決まったものが苦手だったから、得体の知れない感は端からあったのかもしれないね。
JOMMY そうしてMASAHと遊ぶようになって、ブランド教えてもらったりとか、こんなの持ってるんだって教えてくれたりとか、みんなでMASAHの私服を着てクラブに行くとか、そういう楽しかった思い出がたくさんある。その遊びの延長で、HIP HOP JUNKEEZ作って、ショーのスタイリングは全てMASAHのPOLOコレクションで着飾って、フライヤーにも「Styling MASAH」ってクレジット入れたりとかね。そういうのって前例なかったと思う。
左上:1997年頃のHIP HOP JUNKEEZ 左下:J.S.BとMASAH 右:話中のフライヤー
左上:1997年頃のHIP HOP JUNKEEZ 左下:J.S.BとMASAH 右:話中のフライヤー
1997〜1998年頃のHIP HOP JUNKEEZ
1997〜1998年頃のHIP HOP JUNKEEZ
1997〜1998年頃のHIP HOP JUNKEEZ
1997〜1998年頃のHIP HOP JUNKEEZ

「コミュニティから出てカッコいいって思われるものが本当にカッコいい」

JOMMY そうやってHIP HOP JUNKEEZがダンスシーンに一石を投じてワイワイやってたところから、MASAHって急にぱったり居なくなったよね。将来に対してフォーカスし始めたのが早かったと思うんだけど、そのタイミングでスタイリストを職業として決めていたの?
MASAH 正直にいうと、反面教師が多かった。小さいコミュニティが多いなって思ってて、もちろんそれはそれで楽しいんだけど、そのコミュニティを大きくするには、コミュニティの外からカッコいいって思われないといけないし、常に客観的に見えないといけない。これ果たして本当にカッコいいのかな?って、コミュニティから出てカッコいいって思われるものが本当にカッコいいじゃん。その感覚が常にあったと思うんだよね。
その感覚って、1997年にKOYA君とNYに行ったときにものすごく意識し始めたかもしれない。NYに行く前の僕の想像は、黒人は全員B-BOY(笑)。しかもそのころのヒップホップファッションって過渡期というか、ちょっと微妙っていうか、カッコよりも泥臭さの時代だった。ラッパーたちが歌を真剣に売ってた時代だったから、ファッションってよりもリリシズムが先行していた頃で、ダンサーもその時どんな感じだったのかなって考えると、ちょっと思い出せない時期。
実際NYに行ってみると、(ヒップホップファッションじゃない)普通の格好している黒人にまず驚いた(笑)。それくらい、僕の中では黒人=ヒップホップだった。要するに、全然違うスタイルの世界が見えちゃったんだよね。サラリーマンもゲイもカッコよく見えちゃって、スーツに革靴にリュックとか、白Tにジーパンとか、そういうのがカッコよすぎちゃった。
向こうでホストしてくれた音楽プロデューサーの人がドレスアップするパーティに誘ってくれたんだけど、それがまた凄かった。<Timberland>を履いてきたUsherがドレスコードNGで入れない、みたいな(笑)。<D&G>とかのメゾンでドレスアップしている人も居たけど、全身黒尽くめの人とかもいて、片っ端から「それどこの服?」って聞いて回った。そしたら<Yoji Yamamoto>とか<COMME des GARÇONS>とか<A.P.C.>とか、中には<GAP>の人もいたりとか。まんま、ファッションスナップのライターだよね(笑)。
朝方パーティを終えて、そのまま<A.P.C.>から<MARC JACOBS>から色んなお店を見て回った。ヒップホップのフィルターを期待していた自分がいざNYの街中やそういうパーティを目の当たりにすると、そこで見たスタイルがクールだなってなってさ、それが今に通じる、ヒップホップのフィルターを通したファッションっていう始まりかもしれないね。そこから帰って来て、いきなり『メンノン(Men’s Non-No)』とかを読み出すわけ。そこでまた、<CHRISTOPHE LEMAIRE>とかのヨーロッパブランドを知って、NYだけじゃないんだ、みたいな。
1998年頃、NYでのMASAH
1998年頃、NYでのMASAH

NYからロンドンへ。スタイリストとしての出発

JOMMY その中で三田さん※のことを知っていくの?
※スタイリストの三田真一。MASAHのスタイリストとしての師匠
MASAH そこから毎年NYに行くようになって、NYに行くためだけにバイトを掛け持ちする生活をしていたんだけど、この先を真剣に考えないとなって思い始めてた。遊び仲間がJ Soul Brothersでデビューしたりとか、自分もなんとなくプロとしてスタイリストというイメージは持っていたかな。まさに『メンノン』とかで、「スタイリストのなり方」とかって書いてあるじゃん。スタイリストになるにはアシスタントから始める、っていうことだけは分かっていたんだよね。
当時のファッション誌ってヒップホップ感はゼロだったし、そもそもストリートとモードの壁が歴然とあったんだけど、その中でも僕の目に止まるスタイリングって常に三田さんの作品だった。実は<HARLEM>とかで池内(博之)と三田さんが来た時に挨拶していて面識もあったし、凄く好きなスタイリストだったから、アシスタントに付くなら三田さんかなっていうのはずっと思ってて。
それである年、NYに行く前に会いたいと思って池内に連絡してみたら、「三田君ロンドン行っちゃったよ」って。うわ〜会えない!って一瞬思ったんだけど、「そういえば地球は丸いゾ」っていうことを思い出して、もしかしたらNYとロンドンは近いんじゃないかっていうのを、実際に地球儀で確かめて(笑)。音楽的にもこないだのBOBBY君じゃないけどUKって凄く盛り上がっていたし、今UKがアツいよっていうのは聞いてたから、思い切って三田さんに会いにロンドンに行ったんだ。
初めてのロンドンは、それはそれは衝撃で。まずスタイルが細い。それからアメリカだとバスケか野球がベースのスタイルなんだけど、ロンドンだとサッカーのジャージとかを着て歩いてたりするわけよ。リュックとかもアメリカよりもスポーティでジムバッグみたいな、とにかくアメリカとは全然違うスタイルだった。音的にもビッグビートとかドラムンベースとかだったしね。
それで三田さんにロンドンで会って、ちょうど三田さんもその次の年からロンドンと日本で半々で仕事をし始めるから、日本にいるときに手伝いをさせてもらうことになったんだ。三田さんがロンドンにいるうちはバイトで食いつなぐ感じ。スタイリストのアシスタントって給料が出ない世界だったから、親からも助けてもらいながら、ありとありゆるバイトをしたね。夏はエアコンの取り付けから、冬はスーパーの前でお餅を売って。なんとかお金を必死で貯めてたね。
JOMMY 俺、覚えてるよ。クラブで遊んだ後、早朝の電車でMASAHとばったり会ってさ、そしたら「イトーヨーカドーでお餅のバイトがある」って、消えてったんだよね。
MASAH ある日三田さんから電話が来て、めちゃくちゃ怒っててさ。「お前何やってんの?」って。よくよく聞いたら、「餅つきのバイトしてる」っていう話がどこかでねじれて、「MASAHが(スタイリストの)望月さんに付いた」話になってたっていう(笑)。三田さん、大笑いしてたけどね。
JOMMY (笑)。でもさ、その電車で会ったときに、MASAH偉いなって本当に思ったんだよね。こっちはまだガンガン遊んでたからさ。自分が恥ずかしく思えた。
MASAH その頃に、みんなの前から消えたよね。
MASAH、当時のロンドンで
MASAH、当時のロンドンで

「またいつか戻ってくるから」

MASAH スタイリストの道筋を決めたのって実はNAOYA君※の存在が大きかったんだよね。B-BOYとしては大先輩なんだけど、一時期、NAOYA君と遊ぶ機会が多くてさ、洋服の話もちょっと違うんだよね。B-BOYのファッションって、「帽子を浅く被っても俺は落とさずにブレイキンできるよ」とか、「シューレースを緩めても踊れるんだぜ」っていうアピールなんだよとか、そういうB-BOYの視点で話してくれるのが凄く面白くてさ。ある日、僕はダンスもDJもやってるわけじゃないし劣等感あるんですよねっていう話をしたら、NAOYA君が「MASAHにとっての(ヒップホップの)要素は<ファッション>でいいじゃん」って言ってくれたんだよね。パーッとそこで開けて、あぁ僕はファッションやればいいんだ、って。恵まれた環境にいたから、それに対する恩返しっていうか、カッコいいものを周りから見てもカッコいいって思わせたい、そこに一役買いたい、という思いがあったかもしれない。
※Zooのメンバーで、Crazy-Aの実弟にあたる伝説のB-BOY。
JOMMY 当時って、今と違ってヒップホップ(のバックグラウンド)を全面に出して、ヒップホップシーンの出身でそっちの世界に入っていったっていうのは、やっぱりMASAHが最初だよね。
MASAH B-BOYはファッション界に僕しか居ないし、そこを出したいっていうのはあったかもね。例えばアクセサリーひとつ取っても、ファッション界はみんなシルバーなわけ。で僕はチェーンとか指輪とか全部ゴールドだし量も多い(笑)。「お直し入ります!」って、<EVISU>を腰穿きしてガングロでアクセジャラジャラで香水まみれ、みたいな。
そのかわり、現場には誰よりも早く入って、誰よりも早くキレイに(リースした商品を)返す、っていうのはこだわっていた。絶対に下手を打てないっていうね。色んな人に目を付けられていたと思うし(笑)、もちろん三田さんにも迷惑はかけられないし。厳しさは分かって入ったけど本当に家には帰れなくて、たまに友達に連絡するときって「ちょっと風呂貸して」みたいな連絡だったと思うね。一年に一回、お正月とか休みでみんなと会ったときも、「またいつか戻ってくるから」って。
JOMMY みんなで初詣行ったときに久々にMASAHに会って、何ブツブツ祈ってんのかなって思ったら、「独立独立独立独立独立…」って唱えてたのすげぇ覚えてる(笑)。
MASAH 僕だけじゃなくて、その時にJ Soul BrothersがEXILEとしてメジャーデビューが決まって、彼らも駆け出しでハチ公の前でライブを警察に止められたとか、風の噂でお客さん1人相手にクラブで歌ったとか聞いていたから、いつか僕もプロになってかつての仲間としてスタイリングしたいって思ってたし、みんながその頃将来に対してあがいていた時代だったと思う。けど、自分で選んだ道で後には引けないっていうのもあったし、やるしかなかったね。三田さんの元では結局3年半お世話になった。
むしろ、(スタイリストとして)独立してからのほうが辛かったかもしれない。いわゆるB-BOY育ちとして堂々と仕事したかったけど、黒人使わないでとか、スニーカー使わないでとか、派手すぎるとか、辛い思いも多かった。駆け出しのスタイリストからすると心苦しかった時代だったっていうのはあるかもしれないね。
JOMMY
JOMMY
JOMMY そういうスタイリングのルーツ的な、MASAHにとってのヒップホップアイコンっていうのは誰になるのかな。
MASAH いつも答えるのはBusta Rhymes(Leaders Of New School: LONS)かな。僕が着たいと思ったスタイルもだし、音楽的にも好きだったのがLONSで、その中でも彼のスタイルは動き一つとっても大好きだったね。(A Tribe Called Questの名曲でBusta Rhymesが参加した)「Scenario」は完コピ出来るくらい、彼には影響を受けてる。
あと直接でいうとやっぱりMUROさん、KOYA君、BOBBY君かな。MUROさんは着眼点が他と明らかに違うんだよね。先見の明っていうのかな。MUROさんは日本人に置き換えたり、ひとつ加えたり、見ている所が違うなって思う。ダンサーがブランド志向だとすれば、ラッパーはそうじゃなくて、着こなし方とかも、こんなのもあるんだって学んだ気がするんだよね。もちろん、DJとして曲の深みとかカルチャー的なところもあったし。当時からバイヤーの一面も持っていたし。

<the POOL>での転機

JOMMY そこからまた時代を超えて、<the POOL>でMUROさんと仕事してたよね。
MASAH 自分の中でゴールっていうか達成感みたいな仕事はいくつかあったけど、<the POOL>でのMUROさんや(藤原)ヒロシさんとの仕事はまさにそれだった。
僕はドB-BOYで超ヒップホップ上がりだったから、裏原の世界って踏み入れたことがなかったんだけど、結局ヒップホップもヒロシさんだった、みたいな。話を聞くと、昔MUROさんから聞いていたようなことがどんどんフィードバックしてくる感じでさ、UKとかNYとかニューウェーブの流れとか。それで<the POOL>でMUROさんと一緒にやりたいって言ったら、ヒロシさんがDJとして最後に出演したパーティがMUROさんのパーティだったとか聞いたり。
JOMMY その<the POOL>の仕事って、MASAHの中で何かが変わった感じだったの?
MASAH それも大きな要素の一つでもあったし、あとはやっぱり同時期に結婚や出産っていうのがあって、金銭的ってよりは時間の使い方かもしれないね。
職人的な世界観で、スタイリストとしての仕事をノイローゼになるくらい考え抜いて全部全力投球だったんだけど、ある日ヒロシさんから「ラクしていきましょう」ってLINEが来てさ。一緒に仕事していくうちに、「それでいいんだ感」があって、あのレベルの人たちが笑いながら仕事を何となくカタチにしていく、そういう良し悪しってお客さんにも伝わるんだなっていう価値観は大きかったかもしれない。
いいスタイリングがもてはやされていた時代から、モノ先行型というか、こんな靴知ってる?とか、キュレートの時代になっていったよね。それが後の小木君(Poggy)につながるんじゃないかな。僕がやりたかったことって、小木君が全部やっちゃったと思う。バイヤーのほうがそっちの役割に近かったんだろうね。
左:<the POOL>で、妻の今宿麻美と藤原ヒロシと並ぶMASAH。 右:<the POOL>で手がけた商品たち
左:<the POOL>で、妻の今宿麻美と藤原ヒロシと並ぶMASAH。 右:<the POOL>で手がけた商品たち

転換点としての3.11

JOMMY DJとしてのMUROさんもだけど、スタイリストにも色んなスタイルがあって、三田さんなんかももちろんスタイリストだけども、その枠じゃないよね。どっちかっていうとクリエイターとかプロデューサーとか、ものづくりの人っていうか。MASAHもMASAHでスタイリストの枠じゃないっていうスタイルだと思うんだよね。
MASAH そういう時代なんじゃないかな。結局は時代というか、瞬間にフィットして食っていかないといけない。もちろんスタイリングのオファーがきたら誰にも負けたくないけど、最近は、僕が出来ることって普通の人にもできるんじゃないかって思うようになってきた。
あくまで持論なんだけど、2011年の3.11はクリエイターにとっては転換点だったと思う。一気に仕事の感じが変わったんだよね。それまでのファッション業界って、エンターテイメントに対して仕事をしていたと思うんだけど、3.11をきっかけに「エンターテインメントよりももっと大事なことがあるんじゃないか」っていう風潮になったし、実際に仕事のキャンセルも続いて、僕も2ヶ月間入金ない状態になっちゃって。
それぐらい、仕事については考えることがあったのが3.11だったんだよね。例えばJOMMYがスタイリストを立てて<DIESEL>のショーをやるとかじゃなくて、JOMMYがスタイリングすればいいじゃん、とか。クリエイターに対して、これまでのクオリティを求めなくなってくるんじゃないかって。僕らって3年間無休で働いて培うような世界にハードルと憧れがあったんだけど、タレントの握手会で距離が縮んだように、結構色んなことフラットになった感じがあるよね。
MASAH
MASAH

「僕の人生で一番学んだことが多かったのが<ニュースクール>」

MASAH その一方で、答えをすぐに出さなきゃいけない世の中にもなっちゃったかもね。売れたとか売れないとかさ。服とかスタイルって、本来はもっとゆっくり作っていくものでいいんじゃないかなって思うね。僕も服を作らせてもらってるけど、10年とか20年続いているブランドのスタートをイメージしながらやっている。1シーズンで結果を出さないといけないとかじゃなくて、ゆっくりだからこそディテールがみえるとかスタイルが作れるとかあると思うんだよね。時代の感覚っていうのは全く否定しないけど、どっちが楽しいかって言えば、やっぱり昔のような世界に身を置きたいなって。
JOMMY 最後に、今回のテーマの<ニュースクール>って、MASAHにとって一体どんなものだったのかな。
MASAH <ニュースクール>って、ホントにその名の通り、中高でも専門でもなく、一つの”新しい”学び舎(や)って感じだったかもしれないね。BOBBY先生、KOYA先生、MURO先生からの学びがあって、その学びが活きてきたのが社会人になってからなのかなとも思うし、英語とか国語じゃなくて、僕の人生で一番学んだことが多かったのが<ニュースクール>の時代だったと思うね。
そして何よりたくさんの仲間たちに恵まれたし、今こうしてその仲間と仕事をしている。それって、とても幸せな事だよね。いつの間にか、お互い父親同士だし(笑)。
JOMMY & MASAH
JOMMY & MASAH