謙虚な性格でありながら滅法速く、しかも容姿端麗… トム・プライスという男にはすべてが備わっていた。強豪たちがひしめき、誰もが死と隣り合わせでレースを戦っていた1970年代のF1でプライスは最速のドライバーのひとりとして評価されていた。
トムは当時のベストドライバーのひとりだった
幼少期から車に慣れ親しんでいた彼は、レーシングスクールを経て、1970年に英国のタブロイド紙『Daily Express』が冠スポンサーを務めていたクルセイダーシリーズをフォーミュラフォードのマシンで制した。その後、彼は英国モータースポーツの象徴といえるケント州のブランズハッチ・サーキット近くにフラットを借り、週給15ポンドのメカニックとして働きながらサーキットを走り込んで腕を磨いていった。
プライスはロニー・ピーターソン以後の世代を象徴するドライバーで、キミ・ライコネンに少し似た部分がある。天賦の才能に恵まれ、並外れたマシンコントロール能力を有していた
やがて、目覚ましいスピードと優れたマシンコントロール能力を身につけたプライスはF3へ進級すると、1974年にはテールエンダーのToken F1チームから念願のF1デビューを飾った。デビューレースはニヴェルで行われたベルギーGPで、20位と目立たぬ成績に終わったものの、次のモナコGPで想定外のセンセーションを巻き起こすこととなる。
モナコを制するためには並外れたスキルが要求されるが、1974年の彼はそれを見事にやってのけた。ただし、それはF1レースではなかった。
経験不足を理由に主催者からF1出走を認められなかったプライスは、それならばと急遽MarchのF3マシンに乗り込み、グランプリの前座として行われたモナコF3レースを圧倒的な大差で優勝したのだ。レースを終えたプライスのもとには、新星の登場を目の当たりにした4つのF1チームが契約書を片手に押し掛け、彼は同郷ウェールズ出身のアラン・リースが運営に参画するShadowチームとの契約を決めた。
エマーソン・フィッティパルディがMcLarenにチーム史上初のタイトルを届けたこの1974シーズン、プライスは漆黒に塗られたShadow DN3を駆って後半戦を戦った。予選では何度か光る走りを見せ、さらにはあの難コースとして知られるニュルブルクリンク(旧コースのノルドシュライフェ)で6位入賞という記録を残している。
プライスはデビュー2年目の1975シーズンに見せた優れたパフォーマンスで「未来のチャンピオン候補」としての評価を確実にした。モナコでの予選最前列獲得をはじめ、ドイツやイタリアで見せた勇猛果敢なドライビングやオーストリアでの初表彰台も見事だったが、彼がF1界を震撼させるシーズン屈指の活躍を見せたのは、彼の母国だった。
当時、ブランズハッチではノンチャンピオンシップ戦(選手権ポイントが付与されないレース)として毎年Race of Championsが開催されていた。3月の雪と雨に見舞われた悪天候の中、プライスは終始レースを支配し、ジョン・ワトソン、フィッティパルディ、ロニー・ピーターソン、ジョディ・シェクターといった強豪たちを後方に抑えて見事な優勝を飾る。非選手権レースでの優勝ながら、彼はF1史上唯一優勝を飾ったウェールズ出身ドライバーとして今日までその名を刻んでいる。
さらに、同年7月にシルバーストンで開催されたイギリスGP予選でプライスは一世一代のアタックラップを披露しポールポジションを奪取。しかし迎えた決勝レースでは突然の降雨に見舞われ、クラッシュするマシンが続出。残念ながらプライスのShadowもそのリタイヤ組の中の1台となってしまった。
ともあれ、フットボールで言うところのジャイアントキリング的なパフォーマンスの痛快さに気取りのないフレンドリーな性格も加わって、プライスの人気は急上昇していった。当時は同じ英国人ドライバーのジェームズ・ハントがスキャンダラスな話題を振りまいて注目を集めていたが、英国内の人気はハントとプライスでほぼ二分していたと言ってもいい。
大御所ジャッキー・スチュワートでさえ、当時のプライスを「天賦の才能の持ち主」と絶賛していた
1976シーズンは、ハントとラウダが後世にまで語り継がれる熾烈なチャンピオンシップ争いを繰り広げたシーズンとして知られているが、その陰でプライスも着実な成長を遂げる。
開幕戦ブラジルでの3位表彰台を皮切りに、4位入賞を2回記録して充実したシーズンを過ごした。1976シーズンはこの時代のF1としてはある一点において非常に稀有なシーズンでもあった。シーズン中に事故によって命を落としたドライバーがひとりも出なかったのだ。
しかし、続く1977シーズンの第3戦南アフリカGPでF1は再び悲劇的な形で死者を生み出してしまう。
ウェットコンディションで行われた最初のプラクティスセッションこそFerrariを駆るラウダに丸々1秒差という大差をつけ、週末へ向けた期待を高めていたプライスだったが、予選では振るわず15位に終わる。そして決勝レースもスタートを失敗したものの、彼は中団からの追い上げを図るべく奮闘を続けた。
事の次第をそのまま記しておこう。決勝レース22周目、当時Shadowでプライスの同僚を務めていたイタリア人ドライバー、レンツォ・ゾルジがエンジン火災に見舞われピット反対側の見通しの悪い丘の頂点にあるコース脇にマシンを停止させた。ピットウォール側にいたマーシャル2名がゾルジのマシンから出た火を消そうと消火器を持ってコースを横切ろうとした瞬間、プライスを含めた集団が時速270km/hを超えるスピードで接近してきたのだ。
運悪く、プライスのマシンはひとりのマーシャルを撥ねてしまう。当時19歳であったジャンセン・ヴァン・ヴーレンの体はひとたまりもなく宙に放たれ、ほぼ即死だった。しかし、モータースポーツ史上最悪のひとつとされる悲劇はまだこれだけでは終わらない。ヴーレンが手にしていた重い消火器がプライスのヘルメットを直撃、これによってプライスの頭部は致命的な損傷を負い即死してしまったのだ。
絶命したプライスを乗せたままShadowはストレート上をまっすぐ暴走し、前方で1コーナーへ向けたブレーキング態勢に入っていたジャック・ラフィーのLigierを弾き飛ばしながらようやくキャッチフェンスにぶつかって止まった。
私は第1コーナーのクロウソーン・カーブの脇に立っていたが、絶命したプライスを乗せたままのマシンが私の足元で止まった。当時F1に携わっていたジャーナリストの誰もが絶望に近い感情に支配された。翌年にロニー・ピーターソンの事故死が続き、私はこの2つの辛い出来事を必死に乗り越えなければならなかった
ラウダはプライスの悲劇的な死を知る由もないままレースを続け、前年ニュルブルクリンクで瀕死の重傷を負った大クラッシュ後初めてとなる優勝を記録した。プライスが27歳で命を落としていなければ、彼もラウダのようにF1で何度も優勝を記録していただろう。チャンピオンさえ夢ではなかったかもしれない。
表彰台に上がり、月桂冠を授けられているときにアクシデントの経緯を知らされ、トム・プライスが命を落としたことを知った。その瞬間、私は踵を返して表彰台を去ったよ。トムは本当に素晴らしい男だったし、私は彼のことを良く知っていた。それだけに私はひどく動揺した。あとからアクシデントの一部始終を映像で確かめたが、直視できるものではなかった。凄絶のひと言だった
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