タワーレコード渋谷店にとって90年代は変革の時代であり、大躍進の時代でもあった。81年の開店以来、宇田川町に居を構えていた渋谷店が現在の場所(神南一丁目)に移転オープンしたのが95年3月10日。
90年代と言えば音楽ソフトのセールスが飛躍的に伸びた時期。90年にはHMV、ヴァージン・メガストアといった外資系の大型CDショップが相次いで日本に上陸。
一方でWAVEも大型店を2店舗構え、ダンスミュージックレコード(DMR)が開店したり、CISCOが隆盛を極め、マンハッタンレコードが宇田川町に移転しクラブミュージックに力を入れるなど、渋谷を取り巻く音楽的な状況は一変していた。
そのような状況を受けて95年に新装オープンしたタワー渋谷店。8階建てのビルが丸々CDショップとなった店舗は売り場面積がなんと約1,500坪(現在は約1,550坪)。96年にはさらに在庫を拡張して約60万枚(現在は約80万枚)を保有、世界でも他に類を見ない超大型店舗となった。
そんななか、タワレコが発行するフリーマガジン「bounce」の編集長を96年〜99年に務めていたのが、編集者、選曲家、DJ、プロデューサー等幅広く活躍する「サバービア・ファクトリー」主宰の橋本徹さん。
〈90年代の渋谷〉という特別な時代と場所で見た光景とは、どのようなものだったのだろうか?
音楽の情報量が増え、〈セレクト〉でセンスや個性が表現される時代に
——橋本さんから見た1990年頃の音楽シーンは、どんなものでしたか?
その少し前にCDが普及して、新譜と旧譜が同じようにお店に並ぶようになったことは大きな変化でした。そしてクラブミュージックの到来で12インチシングルが急激に広まり、新しいメディアとして定着して、商品量が一気に増えた時代でしたね。
それでひとつのジャンルに特化して聴くのではなく、あらゆる時代やジャンルの音楽の海のなかを自由に泳いでいくようなリスニングスタイルの人も増えていきました。
CLUB QUATTRO(88年6月開店)という、小バコの象徴のようなライブハウスができたり、DJ Bar Inkstick(90年開店)のようなディスコではないクラブができて、音楽の豊かさを享受できる環境が渋谷を中心に急速に整っていった印象があります。
——そういった流れのなかで、後に〈渋谷系〉と呼ばれるムーブメントが形成されていったわけですね。
〈渋谷系〉という言葉は、マスメディアが名付けたことで、外にいる人や後追いの人たちがそう呼ぶようになったんだと思いますけど、たしかにひとつの新しい空気感みたいなものはありましたね。
当時はアシッドジャズやレアグルーヴの影響が大きかったので、そういうバンドがいくつも出てきたり、DJカルチャーが受け入れられていったということも大きいと思います。
つまりいろんな人たちがそれぞれのやり方で、埋もれていた古い音楽に新しい角度から光を当てたりしていた時代だったんでしょうね。
——〈渋谷系〉としてくくられた人たちには、昔の音楽を新しい視点でとらえ直すような価値観が、共通してあったということでしょうか。
音楽の情報量が増えていたので、そこに向かい合って自分なりのセンスで“セレクト”をする意識はみんな持っていたように思います。情報の海のなかを、いかに自分のセンスで泳いでいくか、という時代だったんですね。
だからみんな「自分は何を好きか」で“自分”を表現するようになったし、ミュージシャンでさえも自身が好きで影響を受けた音楽をちりばめ再構築するようにして自分の音楽を作ったりして。
それは僕であれば、“編集”というセンスで、90年末に「サバービア・スイート」というフリーペーパーを作り始めたことにあたると思います。
「サバービア・スイート」「フリー・ソウル」「bounce」で提示した新たな価値観
——「サバービア・スイート」の反響はいかがでしたか?
それがものすごく手応えがあって、そのころ勤めていた出版社を辞めてしまうぐらいでした(笑)。DJ Bar Inkstickの方から「フリーペーパーの世界をイベントにしませんか?」というお話をいただいて、その1回目のゲストに小西(康陽)さんや小山田(圭吾)くん、小沢(健二)くんにトークで出演してもらったら、さらに評判になりましたね。
——そして94年4月には、現在も続く人気コンピ『フリー・ソウル』シリーズを手掛けられます。
「サバービア・スイート」でサントラやジャズやソフトロックやボサノヴァで大きな反響があったので、今度はソウルミュージック周辺の音楽を“グルーヴィー&メロウ”という新しい観点から提案しようと思って始めたのが、『フリー・ソウル』シリーズでした。
そこで僕がやりたかったのは〈いまの音楽シーンから見たときにもっとも輝いている過去に光を当てる〉ということだったんです。僕らが大学生のころは、例えばオーティス・レディングみたいなアーティストこそがソウルミュージックである、というような、偉い評論家たちが作り上げてきた定説みたいなものがあったんです。でも、70年代の音楽も90年代の音楽もすべて脈々と繋がってるものだし、ちゃんと現在進行形のものとして輝かせたかったんですね。
——そして96年4月には、タワーレコードのフリーマガジン「bounce」の編集長に就任されます。
「bounce」は自分が入る前からいちばん好きな音楽メディアでもあったのでお引き受けしました。ヒップホップやソウルの得意なDJ JIN(RHYMESTER)や、日本の音楽が得意なフミ・ヤマウチも誘って編集部に入りました。
——今回、橋本さんが編集長時代だった「bounce」のなかで、個人的に好きな号を一冊持ってきまして。オアシスとSMAPがダブル表紙を飾った1997年8月号になります。
おっ、嬉しいですね。この号の表紙はすごくメジャー感もあるし、広がりがありますよね。中面もSMAPのインタビューの次がコーネリアス『FANTASMA』のインタビュー。たぶん他の雑誌では見られないすごくいい並びですよね。「bounce」は「敷居は低く、奥は深く」を編集方針にしていましたから。好きになるきっかけや好奇心さえあれば、どこまでも音楽の深く広い海を泳いでいけるっていう。
当時はそういうことをやりたかったんですよ。90年代半ばというのは、それまでのひとつのラインやある種のマニアックで洒落たセンスで切ってシャープに見せる時代から、もっといろいろなものが混ざってマクロな視点で編集していく時代に変わっていく時期で。
そしてそれがタワーレコード渋谷店らしさでもありますからね。新しいものも古いものもあるし、洋楽も邦楽もあるという。
例えば、当時のお店では田島(貴男)くんの『風の歌を聴け』や小沢くんの『LIFE』の横に『フリー・ソウル』のコンピが陳列されたりしてましたけど、そういうジャンルごとではない陳列が行われるようになったのは90年代以降なんですよ。どのジャンルにも当てはめにくいものをセンスでコーナーにすることができるようになって、バイヤーが輝くようになった時代だったとも思います。
いまは〈何か目的のものを買いにお店に行く〉という感じの人が多そうですけど、当時は〈お店に行って何か気になったものを買う〉という感覚でしたしね。
<90年代の渋谷らしさ>の終着点
——橋本さんは99年4月まで「bounce」の編集長を務めて、その後まもなく<カフェ・アプレミディ>をオープンします。
〈カフェで音楽を聴きながらくつろぐ〉というのは、いまとなっては当たり前のことなんですけど、その当時の渋谷にはそういったお店はまったくなかったんですよ。
そうすると、その空間で流れてるような楽曲をまとめたコンピ(『Cafe Apres-midi』シリーズ)が作れるようになって、00年代の頭には空前のカフェブームが起こって。
カフェ・アプレミディは最初、趣味の似た人たちが集まるような場所だったんですよ。そのころにはMUROくんがSAVAGE!をやっていたり(96年開店)、NujabesもGuinness Recordsをやっていて(95年開店)、渋谷のなかでもみんなそれぞれのスタイルでやってたんですね。
——橋本さんは当時もずっとDJ活動をされていたわけですが、渋谷のクラブシーンの移り変わりについてどのように実感されてましたか?
HARLEM(97年開店)ができたことで流れが変わったんじゃないかと思います。それまでの渋谷は、DJ Bar InkstickとかThe RoomとかOrgan Barといった小バコのイメージだったんですけど、HARLEM以降はR&B/ヒップホップがメインストリームになっていって。
そのなかでもMUROくんは、渋谷の人のなかでも、ヒップホップ的な人たちと、〈フリー・ソウル〉的な人たちを繋いだ存在だと思います。彼はミックステープ文化の象徴という意味でも“セレクト”の人ですしね。
そうやって、情報の海の中から自分のセンスでセレクトし、編集して、新しい価値を見出し、自分なりに再解釈して提案していく姿勢こそが、〈90年代の渋谷らしさ〉だったのかもしれませんね。