野坂稔和という男の半生
© TOSHIKAZU NOZAKA
スケートボード

野坂稔和というオトコの半生

古来から続く“彫り物”の世界へ足を踏み入れ、今では画工として世界各国で注目を集める野坂稔和。米国情緒あふれる環境で育ち、スケートボードにのめり込んだ彼は一体なぜ、今の生業へと進んだのか!? その半生についてを聞いた。
Written by Hisanori Kato
読み終わるまで:10分公開日:
固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この連載では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どんなライフスタイルをおくっているのかにフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自身の生活にフィードバック出来れば、人生はもっと豊かになるはずだ。第十回となる本稿では、プロスケートボーダーから日本伝統刺青の道へと進み、今や世界各国で活躍する現代アーティストとなった、野坂稔和が登場。
野坂稔和さんがスケートボードと出会ったのはいつ頃ですか?
野坂 小学2年生くらいの時です。自宅の裏にサーファーの人が住んでいて、その人がスケートボードをやっていたので借りたのが最初です。
出身はどちらなんですか?
野坂 一応、立川ってことになってます。ただ、立川と福生のあたりを何度も引っ越ししてるので少しあいまいですね。
幼少期はどんな少年だったんですか?
野坂 ちょっと変わってるんですよ。幼稚園とか保育園に行ってなかったんです。今で言う不登校ですかね。ちゃんと小学校に通い始めたのも3年生くらいから。通ってた学校が中々のヤンチャというか、それなりの家庭事情の子たちが揃ってるような学校だったんですよ。親がミュージシャンだったりアーティストの家庭が多かったり。その中でスケートボードが好きな子たちがいたので仲良くなって、どんどんに夢中になっていきました。でも、完全に火がついたのは中学生くらいからでしたね。
野坂稔和という男の半生

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© Toshikazu Nozaka

火がついたのは何の影響ですか?
野坂 やっぱりドッグタウンですよ。雑誌で見たあのベニスの写真に電流が走りました。
特に好きだったスケーターは誰なんですか?
野坂 ジェシー・マルチネスやアーロン・マレー、ジェフ・ハートセルです。その人たちがオーリーをしたり壁を走ってるのがとにかくカッコよかった。
ネットが普及した今だと、海外の情報を得ることは容易ですが、当時は向こうの情報をどこで吸収してたんですか?
野坂 親が横田基地で働くアメリカ人の友達がいたので、彼らが読んでたスケートボーダーの雑誌を見せてもらってました。
学校のクラスにアメリカ人が混ざってる環境って中々ないじゃないですか。ある意味、恵まれた環境で育ったってことなんですね。
野坂 そうですね(笑)。
“中学・高校には行ってなかった”って人はよく聞きますが、“小学校に行ってなかった”って人はかなり稀だと思うんですが……、家で何をして過ごしてたんですか?
野坂 3歳の頃からプラモデルにハマり始めて、それを買いたいがために小学校へは行かずに空き瓶を集めるバイトをしてました。集めた瓶を洗浄して酒屋さんに持っていくといくらかになるんですよ。
すごい幼少期ですね(笑)。プラモデルはいつ頃まで続けていたんですか?
野坂 家の近くに建築模型の会社があったんですよ。中学生の頃にはコンテストで入選するようにもなっていて、たまたま親の知り合いがその会社を営んでいたので、忙しい時期にバイトで入るようになったんです。高校を卒業してもしばらくはそこで働いてましたね。結構、高給取りだったんですよ(笑)。
野坂稔和という男の半生

野坂稔和という男の半生

© Toshikazu Nozaka

じゃあ、その頃の野坂少年は、興味の比重がスケートボードよりプラモデルに傾いていたんですね。
野坂 そんなことは無いですよ。スケートボードにどっぷりハマっていって、もっとやりたいがために都内の高校を選んだりしてたくらいですから。
と言いますと?
野坂 プラモデルは趣味から仕事になった感覚。仕事でやるようになったらスキルはみるみる上がるじゃないですか。なので、残りの時間はスケートボードにあててました。だから中学の時も、朝5時からスケートボードをして7時半くらいに学校に行って3時に帰って7時まで滑る。工場が忙しい時にはプラモデルの仕事をする、そんな生活でした。
朝の5時からスケートボードってかなりストイックですね。
野坂 いまも作品制作の時は早朝から始めますよ。誰にも邪魔されず没頭できますからね。
野坂さんがプロになったのはいつですか?
野坂稔和という男の半生

野坂稔和という男の半生

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野坂 90年くらいに全日本の大きな大会のアマチュアの部で優勝して。一応、その後にプロに昇格したのかな。ただ、みんな“元プロスケーターの”とか言ってくれるけど、いまと比べるとシステムも違うしレベルも低い。あの頃の日本のシーンは、いつからプロでいつからプロじゃなくなったのかが定かじゃないくらいあやふやだったんですよ。
アメリカの大きなコンテストにも行かれたんですか?
野坂 80年後半から90年代前半の日本のシーンってそんなだったし、これは本場に行って勝たないと絶対に一流にはなれないと思ったんです。それで、高校3年の3学期の冬休みに一人でLAに行ったんです。とにかく、“これで飯を食っていくには、アメリカでコンテストに出るしかない”そんな一心で武者修行に出る気持ちでした。ただ、行ってみると俺が想像していた国とは全く違ってましたね。
どんな風に違ってたんですか?
野坂 旅行の日程は2週間だったんですが、400ドルしか持っていかなかったし、英語も話せないし、泊まる宿も抑えていなかった。これは、自分の計画性のなさが原因ですが、到着してそうそうにカツアゲにあったり、空港で何時間も拘束されたり。ヒッチハイクしても誰にも相手にしてもらえなくて、ようやく乗せてくれた日系人のおかげでなんとかLAのダウンタウンに辿り着けるんです。ただ、その時はLA暴動の真っ只中。街のギスギス感が半端じゃなかったんですよ。その日系人からも「ここには長く滞在するな」って注意された記憶があります。話せば長くなるし、とても話せないようなことなど、本当に色々なことがあったんですよ。
今でこそ、それなりに安全なエリアにはなったんでしょうけど、その当時は凄まじく治安が悪かったんでしょうね。
野坂 そう、凄まじかったですね。アメリカが嫌いになるくらい。
結局、目的だったコンテストには出れたんですか?
野坂 出れなかったです。
じゃあ、1回目の渡米は大失敗だったんですね。
野坂 イヤ、その旅があったからこそ、1発で“プロスケーターになろう”って気が失せたんです。本気で行ったつもりではいますが、もしかすると、それくらいのものだったのかもしれないですね。
帰国後はどういったことをされてたんですか?
野坂 帰りの飛行機で荒れたLAの暮らしを見て“生きるってどういうことなんだろ?”って壁にぶち当たっちゃって。多感な時期なのでやりたいことも沢山ある。色々と考える中で、昔から好きだった“伝統工芸をやりたい、彫り物の道に進みたい”って気持ちが芽生えたんです。
普通に考えたら、アメリカに魅せられた少年は、アメリカのタトゥースタイルに影響されるのが必然のように思えるのですが、“日本の彫り物”に興味を抱いたのはなぜですか?
野坂 さっき空き瓶を集める仕事の話をしましたが、その頃に大人の実話系雑誌が地面に転がっていて、それをたまたま拾ったことがあるんです。パッと開けると1ページ目が、観音様の彫り物の写真だったんですよ。それを見て子供ながらに“ウワッ”て衝撃を受けて。一瞬だけど何かものすごく突き刺さるものがあった。もちろんその時に“彫り師になりたい”って決めたわけではないですが、ずっと潜在的にあったんでしょうね。だからなぜか、飛行機の中でその時の記憶がフラッシュバックしたんだと思います。
帰国してからは彫り師の道を?
野坂 そうですね。その旅行の後から独学で勉強して、20歳からは仕事として始めてました。今日まで一度も辞めてないです。
20歳から彫り師の仕事だけでちゃんと生活できてたんですか?
野坂 18歳で完全に家を出て、そこからは出張で日本各地を回ったりしながら彫り師として働いてました。でも、もちろんそれだけでは食べていけないから、スプレー缶で絵を描く仕事だったりランプビルダーの仕事だったり、とにかく『何でもできる・やります』って言って自分で仕事を取ってきてました。“何でも屋”ってくらい幅広くやってましたよ。ただ、つねずね食べられるって訳ではなかったから、よく日当(日雇い労働)には出てましたけど。
20代の頃にぶち当たった“大きな壁”とかを覚えてますか?
野坂 25歳から31歳くらいまでは生きるのもしんどいくらい大変でした。仕事のプレッシャーや家庭の問題とか色々と。とても解決できそうにない問題を同時に3つくらい抱えていて。自分が調子にのったことによって問題になってしまったこともあったり。仕事にも今ほどの自信がないから、も~、お先真っ暗の状態が続きましたね。
これまでに、彫り師の仕事を辞めようと思ったことは無いんですか?
野坂 それは無い。それは絶対に無かったですよ。
30歳の頃の野坂さんはどんなだったんですか?
野坂 どんなことでもそうでしょうけど、何かを一心に続けると自分の中で深みが出てくるじゃないですか。僕は日本の彫り物こそ、世界に誇る素晴らしい文化だと思っています。ただ、決して否定してるわけではなくて、欧米のタトゥーの文化が日本にも入ってきたことで、“隠す美学”から“見せるファッション”の要素も強くなり、社会の中での彫り物の位置が変化してきてることも事実としてあります。だからこそ、自分の中ではより一層、“誰彼構わず彫る”ってことができなくなったんです。好きな彫り物を続けていくためにこそ、“色々なものを彫る”といった概念から抜け出したかった。そんなことについて深く考えたのがちょうど30歳の頃でした。
なるほど。
野坂 これからは、彫り物の世界だけで生きていくのは、よっぽど世界を股にかけないと難しいはずです。僕自身は日本で活動したいから、であれば、幼少期から好きなモノづくり(作ったり描いたり)をしよう。じゃあ画工になろうと。数年は苦しいだろうけど、彫り師としても10数年ここまでやってこれたんだから、きっとできる。これから10年かけて“彫り物”と“絵”の仕事が半々の収入になればいいだろうって考えるようになって。それで31歳の時に初めて個展を開いたんです。それから毎年開いていますね。
新宿で開催されたこの時の個展には、野坂氏の想像を超える多くの友人が駆けつけた。会場に飾られた作品を見て喜ぶ仲間の笑顔を見た時、極貧の生活の中でもがきながらも前向きに生きる野坂氏に一本の強い光が差し込む。「ここから僕の人生がすごくいい方向に進みました」。この個展がひとつの大きなターニングポイントになったことは間違い無いと話す。
画工として生きる決心をした彼は、30代からをどのように生きたのか。彫り物を初めて27年目だという現在に当時を振り返ってもらった。そして最後に語った“夢”のストーリーには、彼の人柄を映し出したようなあまりにも壮大でピュアなマインドが宿っていた。
野坂稔和という男の半生

野坂稔和という男の半生

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(了)
◆information
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