スケートボード
堀米雄斗のキャリア:日本から世界へ羽ばたいたスケートボーダーの軌跡
堀米雄斗は世界を “足元” に収めているスケートボーダーだ。ほぼすべてのタイトルを手にし、視聴回数が百万単位のビデオをリリースし、日本を代表するアスリートへと進化したトップライダーのこれまでを振り返る。
「日本の堀米雄斗は2025年の世界のスケートボードシーンで突出した存在である」は、誇張表現ではない。
現在26歳、東京出身の堀米は、奇跡に近いトリックをメイクしながら、スケートボードにおけるビッグタイトルを総なめにしてきた。近年、日本のスケートボードカルチャーは世界から注目を集めているが、堀米はスケートボードシーンを永遠に変えつつあるこのムーブメントの先頭をひた走っている。
スケートボードにおける “ストリート” は、このスポーツにおける第2の革命で、スケートボードをそ陽光眩しいメッカから私たちの意識の中へ、そして退屈した若者たちが集う家の前に広がる道路へと連れ出した。
このような時代背景の中、堀米雄斗はスケートボードの申し子的な存在として生まれた。1999年に誕生した堀米は、スケートボードを嗜んでいた父親の影響で幼少時代からスケートボードカルチャーに触れ、すぐにムラサキパーク トウキョウに定期的に通うようになった。
01
カリフォルニアへ
ビデオエディットのリリースと撮影を含む関連業務のための移動で構成されるスポンサーシップ主導のスポーツでプロを目指すという厳しい現実は、誰の目にも明らかな才能の持ち主である堀米を、世界中の同レベルのライダーと同じように、16歳でスケートボード業界の中心地、カリフォルニア州へ向かわせることになった。
マットレスでの雑魚寝は、遅くとも1980年代にはすでに存在していた、スケートボードシーンに長く息づく伝統だ。ハングリーで若いアマチュアライダーたちは何とかしてカリフォルニア州へ向かったあと、ブリトーとスーパーの値下げ品に頼りながら、どこかのスケートハウスの床に自分たちが寝るスペースを確保して、ブレイクスルーを目指している。
彼らの目標は、エンドースメントの報酬としていくばくかの金額を支払える、それが不可能なら発売予定の新製品を無料で渡せるだけの余裕があるブランドのチームマネージャーの目に留まり、スポンサーシップのトリクルダウン経済システムの最下層に食い込むことだ。
このような状況では、若手ライダーたちが著名人の力を借りて、いずれかのチームのデモツアー用バンのスペアシートを確保し、そのチームのスタッフに自分の才能を評価してもらうなどの “チャンス” を獲得しなければならないケースが頻繁に生じる。
堀米にとっての著名人が、カナダ人プロライダーのミッキー・パパだった。パパがトップブランドBlind Skateboardsのロースター枠を用意してくれたことで、堀米はプロキャリアを本格的にスタートさせるための基盤を得たのだった。
2000年頃から始まった、大手スポーツブランドのスケートボードシーンのスポンサーシップ参入は、それまである意味自給自足だった同シーンのマーケティングを混乱させた。
そしてこれは、堀米が成人になる頃までに大半のプロライダーがスポンサーシップとビデオエディットのリリースだけでは生活できなくなったことを意味している。プロになるためには、このスポーツの誕生当時と同じように、コンテストでの勝利が再び必要になっていったのだ。
02
コンテストでの活躍
堀米がコンテストデビューを飾ったのは2014年だったが、表彰台フィニッシュを初めて記録して、家賃と生活費の足しになる程度の賞金を獲得したのは2017年だった。
しかし、表彰台に一度立った堀米はそこから急成長を遂げていき、Street LeagueやX-Games、Tampa Proなどを次々と制覇。スケートボードシーンにおける彼の “株価” は、その先進性に富んでいて誰もが認めざる得ない才能が明らかになるにつれて高まっていった。
03
ビデオ
どのライダーも口を揃えて言うはずだが、“コンテストで名を挙げる” ことは、スケートボードシーンの “正統派” の仲間と思われていたいスポンサーたちからは評価されない。キャリア初期だけの話でも評価は下がる。コンテスト専業の道を選んだ場合は尚更だ。
一方、ビデオは今も昔も評価が高いため、賢明な堀米はコンテストでの活躍を続けながら、ビデオにも取り組み、ウィールのスポンサーSpitfire(2021年)、April Skateboards(経営が傾いていたBlindから移籍。2019年)、そしてNike SBからリリースを続け、リリースごとに100万から300万の視聴回数を獲得していった。
04
World Skateboarding Tour
2020年を迎える頃、最大の成功が堀米の視野に入った。そして堀米はそれから1年後、地元東京で遅れて開催されたオリンピックで金メダルを獲得し、世界のスケートボードシーンにおける “第一人者のひとり” という評価を手にしたのだった。
この頃までに堀米の競技スポーツとしてのスケートボードにおける強さは圧倒的となっており、多くの人が、次のパリオリンピックまでの予選として設立されたWorld Skateboarding Tour(WST)でも堀米が完全支配することを予想していた。
しかし、実際の展開はそのような予想からかけ離れていた。オープンエントリー制だったWorld Skateboarding Tourはプライベート制のコンテストシリーズとは異なっており、招待された少数のライダー限定ではなく、世界中の誰もが参加できた。
このフォーマットが採用されていたため、WSTは予想不可能な展開が続くことになった。結果、東京からパリまでの3年間で堀米が表彰台に登ったのはたった1回、2023年に東京で開催された世界選手権での比較的地味な3位のみだった。
05
ブダペストでの奇跡
2024年6月、オリンピック予選シリーズ第2戦がハンガリー・ブダペストで始まった時点で、堀米の日本代表の座、ましてやパリオリンピックの出場権は、まったくもって確実とは言えなかった。
非常にハングリーな日本人ライダーたちの代表争いに巻き込まれ、オリンピック連覇の夢が打ち砕かれようとしていた中、堀米は、ハンドレールで革新的なラストトリック、バックサイド270ノーリー・トゥ・ブラントスライドをメイクして優勝し、最初のオリンピックミラクルを起こしてみせた。
魔法あるいは強烈な意志によって、堀米はどうにかパリオリンピックの出場権を獲得すると同時に、僅かではあったが、連覇の可能性も獲得したのだった。
06
パリでの連覇
パリオリンピックの男子ストリートは、スケートボード史上最大の番狂わせが起きたイベントとして記憶されるだろう。トップが毎分入れ替わるような激しい展開となった決勝で、堀米は “ブダペストの奇跡” を再現し、最後のトリックで中団から急浮上して金メダルを獲得した。
ブダペストと同じあのトリック、理論上ほぼ不可能とされるあのトリック、世界のどのライダーもまだ再現できていないあのトリックを、堀米はまたメイクしてみせたのだ。
テレビ観戦をしていた数百万人の前で、堀米は最も強烈な形で、世界最高のスケートボーダーという評価を確実にした。不可能が可能になった瞬間だった。
07
そして未来へ
価値があるとされているすべての競技イベントで栄光を手にしながら、リリースごとに数百万人のビデオファンも獲得してきた堀米は、現在世界をその “足元” に収めている。彼がこの先どこへ向かうかは、スケートボードシーンだけではなく、日本全土が注目することになるだろう。
堀米は、私たちがこれまで見たことがない、そしておそらくこの先も見ることがない “新たな地平を切り拓いていく才能” で、この表現は、現在のスケートボードシーンにおいて彼がいかに圧倒的なのかを明快に説明している。
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