▶︎《前編》はこちら|日本語ラップ、基本の“キ”。『64Bars』を読み解く
01
巧みな4小節を連ねていく“64小節”の鑑賞法
伊藤雄介(音楽ライター/プロデューサー)『64Bars』の楽しみ方として、ラッパーが64小節与えられたときにどういう風にラップで乗るか、そのラッパーの価値観やミュージシャン性の違いが露わになる。だから、本来は比べるものじゃないんだけど、敢えて比べてみると面白い。本来は『64Bars』ってカジュアルな感じで、フレーズ単位で韻やパンチラインが入ってくるのを聞いて“にやり”ってなるみたいな塩梅(あんばい)だと思っています。
荏開津広(DJ/ライター)いわゆる日本の“フリースタイル・バトル”とも違うし、楽曲とも違う楽しみ方ができる。4小節毎に韻を踏んで、それが32小節、64小節へと長くなるにしても、自由な形式という意味でフリースタイルと名付けられたのだから、パンチラインさえしっかりしていれば、最初から最後まで話の筋が通ってなくてもいい。
伊藤 そう。同時に4小節やもしくは本当に2小節で完結していくものだからこそ、64小節と長くても聞けるっていう部分はあると思います。
荏開津 ですよね。要するに、話がそこで一応“オチる”から。
伊藤 そう、“オチて”いくから、どこを切り取っても聞ける。僕は昔からFred The Godsonという、先日コロナで亡くなってしまったニューヨークのラッパーのフリースタイルが好きなんですが、彼のフリースタイルとかはめちゃくちゃ長尺なものが多くて、全編に渡ってひたすら“巧い”ことしか言おうとしてないというか、全ラインに頓智が効いている。
ひたすら面白いリリック/パンチラインをストックしていたんだろうし、ダブル・ミーニングやワードプレイも含め、いかに聞き手をニヤリとさせたり感心させようとするか、というのが優れたラップの価値観のひとつとして明確だった。
今回の『64BARS』も、各ラッパーがラップのどういった部分に重点を置いているのかを踏まえて聞くと、より聞き応えが増すと思う。
“これは曲じゃなくて“64Bars”でしょ?”
荏開津 キュレーターのMUMMY-Dさんの『64Bars』がまず飛び抜けていますからね。
伊藤 例えばJinmenusagiとかは元々ラッパーとしての地力が高い人なわけだから、64小節を完走できるようなラップを組み立てることはそう難しくないんんだろうけど、わざとラフにやってると思う。64小節は一般的なラップ曲と比べると長いので、途中で“言うことほぼないし”というラインが出てくるけれども、その気になればあなた捻り出せるでしょ、と(笑)。
荏開津 これは曲じゃない、“64Bars”でしょっていう、ね。中国語混ぜたり、以前に発表した曲を連想させるラインが入っていたりとか、”フリースタイル”としての完成度が美しい。
伊藤 一方、Chico Carlitoみたいな人は……。
荏開津 雄介さんはどう聞きましたか? DさんがCreepy Nutsのラジオ番組に出演して初めて“負けた”と発言しました。
伊藤 Chico Carlitoの動画で、Dさんは思わず苦笑していたけど、そうか、“負けた”発言は彼のことだったんですね。
彼はバトルMCとして晋平太やR指定のような理屈型のMCとも張り合えるスキルを持っている一方、よりフリーで音楽性重視のセッション的なフリースタイル、例えば鎮座ドープネスとかとも相性の良いスタイルでもある。で、『64Bars』では後者のスタイルが遺憾なく発揮されていて、聞き応えがある。
荏開津 音楽的な、というなら田我流さんはそうした形容が相応しいラッパーとして知られているでしょうが、彼の『64Bars』は、Bボーイ=イズムというかBボーイスタンスについてのライミングで、物語もあるけど、なによりその韻が、 “反社”的な“イメージ”=ヒップホップであるという世間に対して一貫して向かっている。
SOCKSさんもふっと途中ではっきりとコロナに触れることでこれが2021年のラップなんだと意識させます。その後も“モノクロで撮っても白黒別れる黄色い肌”とか映画のことでもあるけど、自分はやはりBLM運動についての日本のラッパーからのコメントだと聞きました。
02
ラップは“正しい”言葉遣いを破壊する
荏開津 あと個人的にはGOCCIさんの……。
伊藤 僕もGOCCIさんは好きでしたね。
アメリカのラップのリリックがなんで革命的だったんだろう? と考えると、既存の英文学的な文法を破壊してしまったところにあると思っているんです。文法的に言うとブロークンなリリックが多くて、リズムやフロウを作る上で省かなければいけないという便宜的な理由もあっただろうけど、“is”や“the”のようなベーシックな文法を省いたりする。
ストリートで生まれたスラングを多用することで、単語に本来とは違う意味を持たせたりもする。言語に対する固定観念を破壊して、それが最終的に幅広くポップ・カルチャーに影響を与えるまでになったことが、ラップの偉大だったところだな、と。
荏開津 愉快な話じゃないけど、アメリカは国の成り立ちから人種や階級で分けられてお互いを知らないで暮らしているという側面もあって、同じアメリカという国にあっても、それこそそれぞれのコミュニティはファッションから言葉遣いも異なる並行世界みたいだったりしますからね。
伊藤 ケンドリック・ラマーのリリックが難解と言われているのは、単に難しい単語や表現を使っているから、というわけではなく、正式な単語や文法を使わなかったり、文脈やコンテクストをしっかり捉えてないと真意が伝わらない表現が多いからだと思う。
逆に、J.コールのラップはケンドリックと比べるとすごく分かりやすく理路整然としたリリックだと思っていて、80〜90年代で言うならKRS-ONEを彷彿とさせる筋が通っていて理解しやすいラップだと思う。J.コールとケンドリックって、両者とも現代のアメリカのヒップホップを代表するリリシストとして評価されてるけど、リリックに対するアプローチは全然違いますよ。
03
学校では教えてくれないヒップホップの“言葉”
伊藤 日本語ラップにおいて、最初に先程話したような既存の文法や言語を破壊するアプローチを試みた人たちはブッダ・ブランドだと思うんだけど、GOCCIさんはその潮流に属している。LUNCH TIME SPEAX時代からSF的/未来的な言葉遣いやイルなフレーズが多かった人だけど、今回もそのワード・センスが発揮されてる。分かりやすいリリックや分かりやすい意味をラップに求める人からすると彼のラップは破綻したものに聞こえるかもしれない。だけど、こういうリリックの組み立て方から生まれるアバンギャルドさや得体の知れない凄さもラップの魅力のひとつですよ。
文法の知識がなくてもヤバい“文学”は作れる。それがストリート。
荏開津 他にも例えば裂固さんの『64Bars』は、いかにこの瞬間を生きるべきか? というテーマに仏教的とも言いたくなる境地にふっと韻で通じていく箇所があります。これも学校の勉強とは異なった場所で彼が生きてきて感じたところからきてると思います。
伊藤 語彙力や文法に対する知識がなくてもヤバい“文学”は作れるし、ラップの“文学性”の高さを評価する上でそこが必ずしも評価基準にならないのがストリート的でもある。
アメリカの言葉はヒップホップが生まれて変わった。次は日本の番かも。
荏開津 ブッダの初期のリリックは、明らかにアメリカに住む第3、第4の人種として、英語と日本語が並行しながら同居している世界を映し出していると思うんです。そこをねじ伏せるのが“イル”という世界観。
ヒップホップの言葉はコミュニティから生まれるけど、その言葉がコミュニティを開いたり壁を壊したりすると思うんです。アメリカの言葉は、ヒップホップが生まれる前と比べて変わったと思う。次は日本の番かも知れない。
伊藤 僕が『ラップスタア誕生』の審査員をやってたときに、口を酸っぱくして言ってたことがあります。『ラップスタア誕生』の一次審査のテーマって“生い立ちについてラップする”というテーマだったんですが、多くのラッパーはそれに対して履歴書のように自分の経歴を羅列した、作文のようなラップだったんです。でも、そんな情報はわざわざリリックにしないでもプロフィールを書いてくれれば分かることですよね。自分の人生やキャリアについてラップする際、聞き手にそのラッパーのバックグラウンドに対する想像を喚起させるような書き方をしてくれないと詩的なリリックにならない。Dさんの『64Bars』はそういった意味でも優れた自伝的リリックですよね。
荏開津 例え韻を踏んでいたとしても、そのことと自分のリリックの持つリリシズム、詩でいう叙情の質がどのように関係あるかを考えなきゃいけないということですね。
伊藤 ただ詩的なことを書こうとするんじゃなくて、ヒップホップにおけるリリシズムとは何か? という点をどこまで理解して実践しているか、というのはそのラッパーがヒップホップ・アーティストとして優れているかを判断する上で重要です。
MCバトルでは、瞬間的に観客や対戦相手に自分の意図していることが伝わって沸かせられるかが勝利する上で重要なファクターだけど、書くリリックの場合は必ずしも一聴して明快である必要はない。どちらともMC/ラッパーとしては重要な資質だけど、今回の『64Bars』ではMCバトル的なスタミナも要求される一方で、各ラッパーのリリシズムに対するスタンスの違いが露わになったという意味でも感慨深く聞くことが出来ましたね。
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