大柴裕介というオトコの半生
© Shin Hamada
スケートボード
大柴裕介というオトコの半生
モデル、俳優、バンドマン、絵描きと多方面で活動を繰り広げる大柴裕介。何をしようと、その根底には10代からのめり込んできたスケートボードがある。“宇宙一格好いい乗り物”に託してきた、その生きてきた道とは。
Written by Kana Yoshioka
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大柴裕介というオトコの半生
大柴裕介というオトコの半生 © Shin Hamada
固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この連載では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どんなライフスタイルをおくっているのかフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自身の生活にフィードバック出来れば、人生はもっと豊かになるはずだ。第八回となる本稿では、モデル、音楽家、絵描きなど、多方面で才能を発揮する大柴裕介が登場。取材と撮影は彼の地元である東京の下町、人形町で決行。思い出話をはじめ、スケートボードに対するさまざまな思いを語ってくれた。
 
小さい頃は、どんな子供だったのですか?
大柴裕介(以下、大柴) 人と違うことがとりわけ嫌とかではなかったけど、人と同じである必要はないと思っている感じの子供でした。面白い話があるんですけど、小学校を卒業するとき、自分達で各々の似顔絵を書いたマグカップを焼いて作った事があったんです。みんなは顔の正面画を描いていた中、俺だけ横顔だったことがあったんですよ。焼き上がった後に、担任の先生に親が呼び出されて、「裕介くんだけ横顔を描いたんですが、何か家で環境の変化とかあったんですか?」ってことを聞かれたことがあったみたいで。そのときは、正面を描こうという意識は全然なくて、ただ単に横顔を描いただけだったんですけどね。
 
人と違うことをしてやろうと思ったのではなく、ごく自然な行動だったのですね。
大柴 そう。それは大人になった今も変わらずで、人と違うことをしようとかはあまり意識していなくて、みんなと同じことをやりたければ、やればいいと思っています。ただその中で大事なのは、せっかくなら誰かと同じことをやっていても「アイツじゃなくちゃダメだ」って言われるようなことができないと、と意識はしてます。地球上で何億人の人がやっているようなことでも、「アイツの場合、みんなと同じことやっても“こう”なるよね」って言われるようになればいいかなって。その感覚に一番最初に自ら反応したのがスケートボードかもしれないですね。
 
スケートボードをはじめたきっかけは何だったんですか?
大柴 中学校1年のときに、同級生のアリミツって奴が、「スケートボードに興味あるならあげるよ」って、自分が乗っていた《ヴィジョン》のサイコ・スティックっていう板をくれて。まだノーズも上がっていない時代の板でした、それに《インディペンデント》のトラック、ムラサキスポーツオリジナルの《バナナボード》の黒いウィールがついていて。当時、『ラジカルスケートブック』っていうHOW TO TRICKが書かれた単行本があって、板と一緒にその本も貰ったんです。最初はビニール傘を横に置いて、その本を見ながら飛んだりしていたんだけど、写真だけでは言っていることが全然解らなくて。
なんでできないんだろうと思いながら、しばらく1人で家の前や駐車場でやっていたんだけど、あるときプッシュをして飛んだときに、テールの当たりが良かったのかフワッとなった瞬間に「弾いた!」って気付いたんですよ。そこから500mlの空き缶かなんかを立てて練習するようになって、それをフルプッシュで飛べるようになったら外の世界(家の前以外)に出てみようと。そうしていつしか上野にあったマックス・モーションというスケートショップへ行ったりし始めて。店のお兄さんたちがメチャクチャ格好良かったのを強く記憶してますね。
大柴裕介というオトコの半生
大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
自分の意志で初めてスケートボードデッキを買ったのは、マックス・モーションだったんですか?
大柴 《ヴィジョン》のデッキが重たかったから、次に買うなら軽いのがいいなと思って、初めて自分のお金で買ったのはナゼかフリースタイルの《パウエル・ペラルタ》のパー・ウェリンダーっていう板でした。当時は乗り方に応じてシェイプの種類があることとか、あまり知らなかったんです。当然、軽過ぎるから全然上がらないことに気付いて、それでも頑張ってその板を乗り潰した後、ようやく初めてストリートのデッキを買い直したんです。《パウエル》のフランキー・ヒルのデッキだったかな? 店の人に「フランキー・ヒル好きなの? 他に好きなスケーターは誰なの?」と聞かれて、「トム・ノックスが好きっす!」って言ったら店員さんが「トム・ノックスが好きなら、上野公園に行ってみな」って言われたんです。
それで上野公園に行ったら、当時、和製トム・ノックスと言われていた佐藤カネツグ氏がいたんです。「さっきマックス・モーションで、上野公園へ行ったらカネツグ君がいるから、一緒に滑ったら面白いよと言われて来ました!」って言ったら、「あ、そう」と。特に手厚くされることもなく同じ場所で滑ることになり、ヘタながらも頑張ったものの、俺は下手すぎて萎縮しちゃって、しばらくすると体育座りしちゃうみたいな(笑)。それが確か中3くらいですかね。
  
高校へ入ってから、更にスケートボードにのめり込んでいったそうですね。
大柴 マサヲッチ(山口雅生)ってヤツに高校で出会い、まさにマサヲッチが俺のスケートボードの世界を大きく広げてくれた恩人ですね。同じ工業高校の違う科で、入学当初マサヲッチのことは、毎朝いつもデブでデカいヤツを横に従えて学校へ来ているリーゼント頭のヤンキーくらいの印象でした。当時俺は、ヤンキーの格好をしたヤツらを「古臭い」という意味を込めて「タイムマシーン」って呼んでいたんですよ(笑)。
そんなある日、学校で芸術鑑賞会があった日に池袋の劇場の前で、スケートボードを持って演劇が始まるまで外のベンチに座っていたら、ボンタンに短ランを着たマサヲッチが、こっちに歩いてきたんです。足元を見たらボロボロの《ヴァンズ》を履いていて、「スケートボードやるの!?」と尋ねてきたんですよ。「やるけど!?」と返事をしたら、「以前俺も(スケートボード)やってたんだけど、中学時代にグレて一旦止めてたんだ。でも高校に入ってスケートボードがまたやりたいと思ってたんだよね」と返して来たんです。
それで、マサヲッチの地元で毎週末滑るようになり、そこに今はプロスケーターで活躍をしている赤熊寛敬とか、現在一緒にスタジオ(debolbe studio)を運営してる相方の磯野勇が居たんです。いわゆる「木場クルー」でした。「こいつら超上手い! しかも超面白い!」と驚愕して、そこで世界が一気に開けたんです。彼らと一緒に滑ることでいろいろと体得しました。またスケートボードとは、上手いとか下手とかではなくて、楽しいからやるんだってことを教えてくれたのも木場クルーの連中でしたね。
大柴裕介というオトコの半生
大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
上野、木場を経て、人形町はどんな人たちと一緒に滑っていたんですか?
大柴 本来の自分の地元でもある人形町で滑るときは、ナゼか木場クルーの連中とは別の動きをしてました。中学校の先輩とかと一緒に滑っていました。今は本屋(上の写真)になっているんですけど、当時ココは東京銀行で、そこの前に溜まって滑っていたんですよね。ある日、東京銀行前にいたら、向こうから鬼プッシュしてくる異様な人がいて、ボワ~ッ! と凄い速さと勢いでやってきて、目の前で止まって「ウィッス」みたいな感じで滑り始めたんです。
その姿がとにかくとっぽくて格好よくて……ヒョロっとした身体に、ダボッダボのジーンズとカバーオールを着ていて。それに長い髪の毛に白いニット帽を被っているグーフィースタンスの人だったんだけど、当時スケーターの名前をあまり知らなかった自分でも「あ! 尾澤彰って人だ!」とすぐに分かったんです。でも原宿や渋谷のイメージが強かったから、「なんで、ここで滑ってるんすか?」って聞いたら、「この近くに住んでるんだよ」と。この頃、アキラ君(尾澤彰)が住んでたこともあり東京銀行の前には20インチのBMXのハンドルにスケートボードを差した江川君(江川芳文)や、北千住からプッシュでやってくるサルーダ君とか、T19 SKATEBOARDSの人たちがよく来てて、俺も図々しくそれに混じって一緒に滑ってました(笑)。
  
今も大柴さんにとって尾澤彰さんは憧れの先輩のようですが、当時からスケートボードだけでなくいろいろなことを教わったようですね。
大柴 当時俺は17~18歳でアキラ君は20~21歳くらい。時々もめごとを助けてもらったり(苦笑)、「ハードコア聴きながら、スケート出来るクラブがあるから今度行かない?」って、東京銀行の前で待ち合わせをして、王子にあった3Dに連れて行ってもらったりもしました。木場クルーは、ケンカや悪いことはご法度、上下関係を作らないのが暗黙のルールみたいな。割とフラットな関係だったんですけど、一方、当時アキラ君とは遊ぶ頻度こそ少なかったですけど、俺の中では絶対的「悪」な先輩だったんです(笑)。いろいろなことを教わった本当に尊敬する人で、今でも会えば可愛がってもらっています。
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大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
俺にとってスケートボードっていう乗り物は宇宙一格好いい乗り物なんですよ
高校を卒業してからモデルとして活動をするようになったかと思いますが、その頃はスケートボードとどのように携わっていたんですか?
大柴 人形町のスケートシーンが一旦下火になり、木場では相変わらず滑っていたんですけど、今の仕事(モデル業)をやり始めてからいろいろな分野の視野が広がったりもして、今までとは少し違うスケートボードへの触れ方になっていきました。特に意識していたのは、仕事の世界では、なるべくスケートボードには触れないようにするということ。というのも「面白いな、楽しいな」と思って選んだモノが、自分の場合はたまたまこの乗り物(スケートボード)で、そのカルチャーが自分の生き方にフィットしたから辞めないで続けてたけど、モデルの仕事をはじめてからは、スケートボードが根底にある自分のスタイルが、ファッション業界で果たして通用するのか、また立ち回っていけるのかと思っていたところがあったんです。
俺にとってスケートボードっていう乗り物は宇宙一格好いい乗り物だから、その宇宙一格好いいギアを持って立てば格好いい写真は簡単に撮れる、だけどそれじゃスケートボードに失礼だと思ったんです。まずは自分単体でどこまで勝負できるのか? モデルとして借り物の服を着たときに、服に着られるんじゃなくて「俺が服を着ているんだ」っていうようにならないと。とにかく揺るぎない自分をしっかり持ちたいなと、この仕事を始めて最初の段階で強く思ったことがソレでした。なので昔はスケートボードに乗って撮影現場に行くと、「キミ、スケボーやってんだ? じゃあ今日の撮影でソレ持って立とうよ」ってノリで撮影にスケートボードを入れようとしても、頑なに断っていた時期もあったんです……。「これは、俺の大切な乗り物なんで見せたくないです」って言って。
仕事をはじめて数年はあえてスケートボードと仕事をリンクさせることはしなかった。それが自分なりの敬意だと思っていた
スケートボードに対する自分なりの敬意というか、根底にスケートボードの存在があって、今の仕事が成り立っていったわけですね。
大柴 今もですが、当時から俺の周りには本気でスケートボードをしている人がたくさんいたし、モデルの仕事で誌面とかで簡単にスケートボードを語ってしまうのは安っぽいことだなと思っていたので。仕事をはじめて数年はあえてスケートボードと仕事をリンクさせることはしなかったですね。それがスケートボードに対する自分なりの敬意だと思っていたし。自分が人様の前に立って少しは説得力がついてきたかなと感じられるようになってから、初めて「スケートボードを撮影に使っても良し!」と思えるようになっていきました。
その辺のバロメーターになってくれていた要素として、木場クルーの存在は大きかったです。モデルの仕事が凄く忙しくなったときも、なるべく木場クルーとは滑りに行って、一緒にみんなで遊んだ最後にマサヲッチに「俺、どう? 大丈夫?」っていつも確認をしてましたね。それで「大丈夫、裕介は全然変わってないよ」と言われると安心したりして。もちろん木場クルーの中にはモデルをし始めた当初、偏見の目で観ていた奴もいましたよ。でもそこは仲間。俺自身がブレないことを示していって、そういったフィルターを取っ払うにはそんなに時間はかからなかったです。
大柴裕介というオトコの半生
大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
ファッションシーンの最前線にいながら、自分がいたローカルのスケートボードシーンを離れる気持ちはまったくなかったんですね。
大柴 俺が20代の頃は雑誌も全盛期だったから、もちろん揺さぶられる誘惑もたくさんありました。でも、やっぱり仕事が終わったらスケートボードや、ライヴへ行くことを選ぶ性分だったんです(笑)。そんなときに、マイク・バレリーのロードムービー『DRIVE』の映像の冒頭に出てくる「Skateboarding Save My Life(スケートボードが私の人生を救ってくれた)」という言葉を観て、「この言葉、俺がこれまでに思っていたことだ」とゾワッてなって、泣いてしまったことがあったんです。
だけどそれから少し経って《コンソリデーテッド》が立ち上がったときのスローガン「Skateboarding Ruined My Life(スケートボードが私の人生を翻弄する)」ってフレーズを読んだときに、さらにまたドカン! と、きてしまって。「Save My Life」はレジェンド級の人たちが感じることのできる高貴な言葉だけど、まだ現役で下っ端の俺は、もっとヘッシュで「これ(スケートボード)さえなければ、全うな人生を生きてこれたんだよ!」って敬愛を持って笑いながら言える。その方がシックリくるし、まさに「人生を惑わされてる=Ruined My Life!」って(笑)。それ以来、ずっと《コンソリデーテッド》の言葉が頭の中を泳ぎ続けてます。
 
《コンソリデーテッド》のもうひとつのスローガン「Don’t Do It」という言葉がありますが、自身が現在乗っているデッキも《コンソリデーテッド》だし、その言葉を使って自らTシャツを作るほど、ブランドの考えに共鳴しているようですが。
大柴 俺はこの動きを勝手に「Don’t Do It Army」と称しているんですけど、実は世界各国に《コンソリデーテッド》の考えに共感をして活動をしているコアなファンがいて、それぞれがアーミーとしてそれぞれの「Don’t Do It」を布教しているんですよ。俺も勝手にその1人として仲間内で版を作って、自分の仲間内のためにだけに刷っている感じです。これはメッセージだから基本的に自分で着るのが目的なので販売してお金を生むつもりは一切無いんです。あとは意識に共感してくれてる仲間に贈呈しているだけです。ちなみに、《コンソリデーテッド》サイドにはSNSで目視確認とコメントの返信ですが、了承と賛同は頂いてます。
  
その言葉をどう自分の中で消化していますか? また、どんなことに対して「Don’t Do It」と感じますか?
大柴 一番思っていることはもちろんあるけど、それは自分自身にのみ大切にしておきたいことなのであえて口にはしません。ですがこの文言はすべての日常に当てはまることだと思うんですよ。まさに「あまのじゃくであれ」っていう。何かを受け入れるにも、何かに賛同するにも、まずはDon’t(否定)して、一度自分の中で疑ってみてから受け入れる。もちろん各々が思う「Don’t Do It」があるだろうし、そこにそれぞれのスタイルがあればいいということなんですけどね。まぁとにかく、一見悲観的なメッセージをあえて広域に公表してみせた《コンソリデーテッド》は、やっぱり格好いいし、本当に好きなスケートボードブランドです。
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大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
格好いい人ほど多くの言葉はなく、その存在で説教をしてくれた
スケートボードをしているときは、とにかく生き生きしていていますね。
大柴 やっぱり子供の頃からやっていることだし、そうなってしまうんですかね。それだけに尊敬しているスケートボードの撮影をするときが一番緊張します。自分はたまたま人に知られる生き方をしてきただけだけど、俺は何様でもなく、いつまでもスケートボードに乗って楽しんでいた、ただのクソガキなんですよ(笑)。なので仮に今の若い世代の人たちの中で、俺みたいなベクトルの生き方を志しているような人がいても、ああだこうだ言葉で説法をするつもりはなく、この存在や、俺の身体ひとつが、その人にとって説得力になったらいいなと思ってます。かつて若かりし自分が「格好いいなぁ!」と思う人たちがそう示してくれたみたいに。
俺はいつも赤面で「もっと格好よくならないと!」と思ってたんですが、そう思わせてくれた格好いい人ほど多くの言葉はなく、その存在で説教をしてくれたんですよ。彼らにはきっとそんなつもりはなかったと思いますが。なので、俺もそこは意識していきたいんです。
  
本業しかり、バンド、絵を描くことなど、いろいろな活動をされていますが、すべてスケートボードが軸になっていると思いますか?
大柴 キレイごとに聞こえるかもしれないですけど、それらはすべてスケートボードっていう木から枝分かれしたものだと思ってます。考え方にしても、例えば今のこの状況で、この案件がきたら、それに対してどう返答して、どう振る舞うか。それをスケートボードに置き換えて、これから目の前にあるセクションに対してどうアプローチして何を仕掛けるか、みたいな。人付き合いも自然と同じ目線でスケートボードに魅せられた人とリンクしていくことが多いから、やっぱりスケートボードが軸にあるんでしょうね。思想や生き方を含め、すべてのことを一度、スケートボードに昇華して物事を考えていることは多いです。
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大柴裕介というオトコの半生© Shin Hamada
最近はどんなスケートボードライフを送っていますか? またこの先、どんなスケートボードライフを送っていきたいと思いますか?
大柴 最近というか、ずっとそうだけど、スケートボードはその時その時の自分に課題を与え続けるものとして在り続けてます。なのでこの先も極力年齢や頻度に左右されないスケートボードライフでいたいですね。一緒に滑っている人を1人ずつ挙げていったら、全員あげなきゃいけないのであえて言わないですが、俺がスケートボードに出会ってから一緒に滑ってきた人たちへ感謝と尊敬を捧げ続けます。
  
■プロフィール
大柴裕介
‘90年代よりモデル、俳優として活躍。音楽家としてハードコアパンクバンドCROCODILE COXの唄い手や、ケルティックフォークバンドThe Erexionalでは笛吹きとしても活動。ここ数年は、絵描きとしての才能も発揮中。また江東区冬木にある撮影スタジオ「debolbe Studio & Warehouse」も運営している。12月4日(月)〜12月10日(日)には、ROOM412にて開催されるアート展「スイッチ イナウト」に参加するとのこと。
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