サッカー
【RB大宮アルディージャ】村上陽介、自分に矢印を向け、言い訳を捨てた「至誠」の道
村上陽介(むらかみ・ようすけ)が大きく成長した裏側には、指導者との出会い、そしてサッカーとの向き合い方の変化があった。明治大学を経て再び大宮というクラブを背負うセンターバックは、今、何を思い、レッドブルと共に歩むクラブの未来をどう描いているのか。
《This is OMIYA》をテーマにRB大宮アルディージャというチームや選手たちの内側にスポットライトを当て、その魅力をお届けする連載企画。
まずは、アカデミーや埼玉にルーツを持つ若手選手らを主人公に、素顔はもちろん、チームへの愛着や育成環境に対する思い、彼らを形成するOMIYAイズムに迫る。
第2回目は《村上陽介》
一度は届かなかった場所に、村上陽介は自力で戻ってきた。
大宮アルディージャU18からトップチーム昇格を逃したセンターバックは、明治大学を経てプロとなり、再び大宮のユニフォームを身にまとって戦うチャンスを勝ち取った。プロ1年目だった2024シーズンはJ3リーグで35試合に出場して優勝とJ2昇格に貢献。続く2025シーズンは初ゴールも挙げ、終盤にレギュラーポジションをつかんだ。
そんな現在地からは想像しにくいが、小学生時代の村上は「そこら辺のサッカー少年」だった――。
01
「プロになれると欠片も思われてなかった」少年時代
地元は東京都世田谷区。小学校入学と同時にFCトッカーノで本格的にサッカーを始めたが、当時は「大げさではなく、こいつがプロになるだろうとは欠片も思われていなかった」という。
「当時から身長は高かったです。でも、成長期で体が動かなかったり、かかとが痛くなったりした時期もありましたし、小学生の頃は試合に出られない時期もたくさんありました」
同期のチームメイトが何人もJクラブのジュニアユースへ進む中、村上に声はかからず、FCトッカーノのU-15チームに昇格した。将来を現実的に見据えた時、目標はプロではなく、國學院久我山高校のサッカー部でプレーすることだった。
中学受験を経て國學院久我山中学校に入学したのも、その道筋を思い描いていたからだ。FCトッカーノには高校年代のチームがないため、中学卒業後は高校サッカーの強豪で勝負するつもりでいた。
その未来が動いたのは、中学3年生になる直前だった。FCトッカーノU-15の長田道泰監督との面談で、村上は初めてJクラブのユースに進むという選択肢を提示される。
「両親もいた面談の場で長田さんに『君には可能性があるから、ぜひJクラブのユースにチャレンジしたらどうだ?』という話をしていただいて、そこからJリーグを意識するようになりました。身長が高かったので、ありがたいことに中学3年生のタイミングでいくつかのクラブの練習に呼んでいただいて、その中で大宮アルディージャがいいなと思って、大宮に決めました」
02
転機となった自身の癖との決別
國學院久我山高校ではなく、大宮U18へ。村上は進路を大きく変えた。だが、街クラブからやって来た選手にとって、Jクラブのアカデミーは甘くなかった。
「本当にポテンシャルだけで獲ってもらったんだなと。U15から昇格してきた当時のチームメイトに聞くと、『入ってきた時はこいつ大丈夫か?と思った』と言っていました。U15から昇格してきた選手に比べたらシンプルに下手だったし、身体が大きいだけの選手でした」
実際、大宮U18では高校2年生の5月まで一度も公式戦でベンチ入りすらできなかった。それでも村上は現実を冷静に受け止めていたという。
「試合に出られなくても不満は一切なかった。不貞腐れることもなかったですね。レギュラーの先輩たちに対しての競争心も全然なくて、むしろ彼らから学んで、いいものを盗めたら……という感じで過ごしていました」
その村上が大きく伸びるきっかけになったのは、技術よりも先に、サッカーに対する向き合い方の変化だった。
今も大宮U18を率いる丹野友輔監督から、面談の場で「言い訳を探す癖」を突かれたことが村上にとって重要な転機になった。
「自分は他人から言われたことに対して何かと理由をつけて『いや…』『でも…』『だって…』と言い訳を探していた。それを面談で丹野さんに指摘されて、自分の中で『これは変えなければいけない』と気づいて、一切やめるようにしたんです。
そうしたら全てを受け入れられるようになった。丹野さんの指摘によって、難しいことを言われても言い訳を探さず、とにかくまずはやってみようというマインドに変えてもらったのはものすごく大きかったと思います」
その変化は、成長スピードを一気に引き上げた。入団当初は見劣りしていた技術面も、日々の積み重ねで少しずつ追いついていった。そのタイミングで考え方まで変わったことで、村上の中では想像もしなかった成長の連鎖が起こり始める。
「例えば相手のプレッシャーを剥がせたら『俺、こんなことできなかったよな…』と感じたし、対面パスの練習をしていたら『浮き球をこんなにピタッと止められなかったよな…』と気づくんです。小さなことですけど、マインドが変わってからは日々そういう気づきの連続でした」
03
世界の舞台で手にした自信
ちょうどその頃、結果もついてきた。2月生まれの早生まれであることもあり、高校2年生ながら埼玉県代表として国民体育大会(国体、現国民スポーツ大会)に出場。少年男子の部で優勝を経験する。人生で初めての「選抜」で得た全国制覇は、大きな自信になった。
高校2年生の夏から秋にかけては「自分でもびっくりするくらい爆発的に伸びた時期」で、村上は「自分の心も追いついていないくらい日々成長を実感していた」という。国体を経て大宮U18でも出場機会を増やし、最後のシーズンにはチームメイトたちの投票によってキャプテンを任された。プレー面では決して早熟ではなかった一方で、愚直に取り組む姿勢は周囲からの信頼を確実に集めていた。
高校3年生になった2019年6月には、初めてU-17日本代表に招集された。同年10月のFIFA U-17ワールドカップのメンバーにも滑り込み、世界の舞台を経験する。
「高校2年生の国体が初めての選抜で、その次がU-17代表だったので、レベル感を確かめるよりも、とにかく自分のできることをやろうという考えだけで参加したからこそうまくいったのかなと。
初めてU-17日本代表に招集されたのはアルゼンチン遠征で、相手はものすごくフィジカルが強かった。そこですごくいいプレーができて、1試合目で自分は代表の中でもできるんだという自信をつかんだのを覚えています」
センターバックでは半田陸(現ガンバ大阪)と鈴木海音(現東京ヴェルディ)のコンビが鉄板になっていた完成度の高いチームに、村上は後から「3番手」として割って入った。決して中心選手とは言えない中で抱いていたのは不満ではなく、「自分の武器でどう貢献するか」という意識だった。
「自分にとっては想像を超えたところにどんどん入っていっている感覚だし、『俺は何で出られないんだ?』という気持ちはなく、どうやったらこのチームに自分の武器で貢献できるかだけに集中していました。そうやって常にいい準備ができたことがセネガル戦のプレーにつながったのかなと」
U-17ワールドカップではグループステージ第3戦のセネガル戦で初出場。ラウンド16のメキシコ戦にも先発した。敗れたメキシコ戦には悔しさが残った一方で、セネガル戦は「自分の人生の中でも記憶に残っている試合」だという。規格外の身体能力を持つ相手とも真っ向から渡り合い、1-0の勝利に貢献。世界の舞台で、自分のフィジカルが通用するという確かな手応えを得た。
04
大宮への帰還と、特別なクラブへの感謝
「代表に初めて選ばれたのが高校3年生の6月で、昇格を決めるのが夏前なので、ブレイクがちょっと遅かった」と本人は苦笑する。だが、そこで大宮との縁が切れたわけではない。むしろ、村上の中で「このクラブでプロになりたい」という思いは、いっそう明確になっていった。
きっかけの1つは、大宮U18時代に中谷優介コーチ(現大宮U15監督)からかけられた言葉だった。
「負けた試合の後に中谷コーチに呼ばれて、『お前はプロに手の届くところにいるんだから、もっとやれよ』と言われたんです。その言葉で『自分はそういうところまで来たんだ、距離が近くなったんだ』と実感した覚えがあります」
トップ昇格できなかった村上は明治大学へ進学する。学業とサッカーを高いレベルで両立しながら力を蓄え、大学4年生になる直前、2024シーズンからの大宮加入が内定した。
一度は道を断たれたにもかかわらず、「とにかく大宮に戻りたいと思っていた」理由は明確だ。
「大宮でなかったら絶対にプロにはなれていなかったし、そもそも明治大学にも進めなかった。なので、このクラブに恩を返したいという思いを持っていました。
クラブを離れてもスカウトの方がよく声をかけてくださっていて、ずっと近くにいてくれたのも自分にとって大きかったかもしれないです。クラブとしての温かさが愛着や感謝につながっていて、戻ってきたいと強く思える。現実として僕がそうなので」
村上にとって大宮は、ただの所属先ではない。大宮はサッカー選手として、そして人としての生き方を教わった場所であり、そこでプレーすること自体に特別な意味がある。
「もしかしたら今日が最後になるかもしれない。プロとはそういう世界だと思うので、毎回スタメンで入場する時にゴール裏を見て、『この景色が見られるのは最後だと思ってやろう』という覚悟を持って試合に挑んでいます。そういう気持ちにさせてくれるNACK5スタジアム大宮は、やっぱり特別だと思います」
05
心に誓う至誠の道
小中高の全てでキャプテンを務め、大所帯の明治大学でも4年次に副キャプテンを担った。派手なパフォーマンスで先頭に立つタイプではないかもしれない。それでも誠実に努力を積み重ねる姿勢が信頼を生み、いつしかチームを引っ張る立場になってきた。
そうした村上の土台にあるのが、座右の銘として大切にしている言葉だ。
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」
孟子の言葉であり、吉田松陰も信条としていたとされるこの一節を、村上は自らの指針に重ねる。
「誠意を尽くして向き合えば、それで動かない心はないという意味が響きました。自分に矢印を向けて言い訳をしないで、とにかく一生懸命、目の前のことに取り組む姿勢は、僕がサッカーをするうえでの礎になっているし、これからも変わらないと思います」
もっとも、プロになってからはそれだけでは足りないとも感じるようになった。
「試合に出られなかったり、勝てなかったりした時に他人のせいにしないのはもちろん大事ですけど、同時に反骨心も大事だなと。不貞腐れるのではなく、悔しさをポジティブなエナジーにつなげるというか。
アカデミー時代は大宮というクラブにいられること自体が自分にとっては奇跡的なことだったので、試合に出られなくても『何でだよ』と思うことはなく、そこまでの実力だと受け入れていたところもありました。
でも今はアマチュアではなくプロの世界にいるので結果が全てだし、結果を出せなければキャリアが終わってしまう。そこで生き残っていくには反骨心がなければいけないと思うようになりました。今よりもっと難しい時期は必ず来るだろうし、その時にどう立ち向かえるかが、自分がプロとしてどこまで行けるかの鍵になると思っています」
言い訳を探すことをやめて大きく伸びたアカデミー時代の学びを土台とし、より熾烈な競争のあるプロの世界に足を踏み入れた村上のマインドは、立場とともに変化してきた。「大宮のエンブレムを背負っている今、この瞬間が自分の人生にとって特別であることは間違いない」からこそ、クラブの痛みも自分事として受け止めている。
「昨年のJ1昇格プレーオフ準決勝のジェフユナイテッド千葉戦は3-0からひっくり返されて、『泥水をすする』なんて言葉では済まされないくらいの屈辱を味わいました。自分がそう感じたということは、このクラブに関わる人々、ファン・サポーターの皆さんも本当に悔しい思いをしたはずです。
だからこそ自分はアカデミー出身者として、あの敗戦のピッチに立っていた者として、あの日の悔しさを晴らした時にチームを象徴するような存在になっていたい。苦しくてもこいつがいたら守れると思わせる、必要な時にはゴールも決められる。そんなチームを勝たせる選手になりたいと心から思っています」
かつて「そこら辺のサッカー少年」に過ぎなかった村上は今、プロとして戦うための翼をさずけてくれた大宮の未来を背負う次代のリーダーになろうとしている。
ーーーーー
レッドブルのサッカー・プロジェクトやインタビュー記事などのまとめページは【こちら】
ーーーーー