固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この連載では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どんなライフスタイルをおくっているのかフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自身の生活にフィードバック出来れば、人生はもっと豊かになるはずだ。第八回となる本稿では、ゼロ年代に日本のスケートシーンだけでなく、ファッション界でも活躍した、下町レペゼンのスタイルウォーズ、竜人(藤井 竜太郎)が登場。
まずは、竜太郎さんがスケートボードを始めた頃について教えて下さい。
藤井 竜太郎(以下、竜太郎) 中学1年の夏だから、13歳かな。
その頃は誰と滑ってたんですか?
竜太郎 地元・千駄木の幼馴染たちです。
始めたばかりの頃は、どんなだったんですか?
竜太郎 俺、始めからメチャクチャ上手かったんですよ。だって、初日でワンエイティー出来ちゃってたし、1年目にはスポンサーも付いてましたからね。
始めて1年でスポンサーが付くって凄いですね。
竜太郎 池袋のサンシャインシティの中にあったUスケートっていう、ちょっとやさぐれたスケートショップなんですけどね。
この頃はどういった場所で滑ってたんですか?
竜太郎 いつも千駄木から今日撮影してもらった王子のあたりで滑ってましたね。そんで、その次は東大(東京大学)の周辺に移動して、その次に上野公園に行って。次から次へ場所を変えていってました。そんな動きをしてるうちに、“どうやら秋葉原に、ヤベ~スケーターたちが集まるスポットがあるらしい”って情報を聞きつけて、そっちに行くようになりました。
その頃の秋葉原は、一番アツいスポットだったんですよね。
竜太郎 そう。チョイスやらニュータイプやらフラワーやら、当時の日本で一番ヤバかったクルーがみんな来てました。まだガキだった俺は、“いつかコイツらを越えてやる”って憧れの気持ちで眺めてました。
ちなみにこの頃は、どういったスケートのビデオを見てたんですか?
竜太郎 俺、海外のビデオは全く見てなかったですよ。今までの人生で50本も見てないんじゃないかな。その代わり、日本のスケートビデオは擦り切れるほど見てましたね。それこそ、さっきも話に出た、ニュータイプやフラワーとか。とにかく30歳を過ぎるくらいまで、アメリカには全く興味がなかったんですよ。それよりも、“俺は日本人だから日本人に負けたくない”って気持ちがずっとありましたね。
日本人としてのアイデンティティが強いんですね。
竜太郎 そりゃ~そうでしょ。だから一番初めにスケートデッキを作った時もデザインが和物だったし、俺のシグネチャーは和物のデザインが多いんですよ。
もうその頃から、スケーターとして飯を食っていくって決めたんですか?
竜太郎 そうっすね。高校受験する中3のタイミングで“プロスケーターになる”って覚悟を決めたっす。ぶっちゃけこの頃って、スゲー練習してたから、ずば抜けて上手くなってました。
結構、練習をするタイプなんですね。
竜太郎 うん。夏休みって40日間あるでしょ? 俺は38日間ず~っと、秋葉原で10時間くらいがむしゃらに練習してた。“今日はこの技をやる”って決めたら出来るまで絶対に帰らなかった。特にフリップとフロントフリップは、50歳になってもできるくらい練習したね。その結果、中3の頃にCOYAさんっていう先輩の誘いでチョイスに入ったんです。も~、そっからは俺の人生弾けまくりっすよ(笑)。
チョイスってよく聞くんですが、どういったスケートクルーなんですか?
竜太郎 秋葉原の駅前広場で滑ってた集団。日本で初めてのスケートボードのウエアブランドって感じかな。ガキの頃からスッゲー憧れてたクルーだから嬉しかったっすね。
竜太郎さんが昔のエピソードを話す時って、必ず赤熊寛敬さん(プロスケーター)の話が出てきますよね。彼との出会いもこのクルーが最初ですか?
竜太郎 そう。赤熊くんはチョイスのメンバーで俺のスケボーの先生。元々は体操部の人だから、教え方がめちゃくちゃ上手いの。跳び箱を例に挙げて、スケーボーの基礎を1から教えてもらってましたね。
チョイスにはどれくらいいたんですか?
竜太郎 高校2年生までだったかな。昼間は赤熊くんと昼から夜までず~っとスケーボーして、夜からは赤熊くんの兄貴とクラブに連れてってもらってましたね。まだポッケに5OO円玉くらいしか入ってないガキだったけど、週3くらいで色々なクラブに連れてってもらって飯もおごってもらって。だから俺の今までの軸になってる、スケボーとクラブ遊びは、赤熊兄弟に教えてもらったんですよ。
赤熊さんとは何歳くらい年が離れてるんですか?
竜太郎 あの人は52年生まれだから4つ上かな。ちなみにこの年は“日本のスケボーの奇跡の時代”って言われてるんですよ。赤熊くんにオカシンくん(岡田 晋)、ジュンノスケくん(米坂淳之介)、ウラくん(浦 友和)とか、パッと思いつくだけでも錚々たる面子。も~スター揃いっすよね。俺は56年生まれで、この世代は“プチ奇跡”って言われてた(笑)。
少し話がそれますが、今回、持ってきてもらった昔の資料は何ですか?
竜太郎 これは、昔あったウィールって雑誌。この0号で始めて表紙になったんですよ。ちなみに表紙の写真はデビルさん(デビル西岡)。まだチェリーボーイの頃だから15歳の頃かな。雑誌の影響力がすごくあった時代だし、1発目の表紙ってこともあって『誰だこいつ?』ってかなり話題になったんですよ。だから色々な土地(スケートパーク)に行くと『お前が藤井竜太郎かぁ?』って声をかけられてましたね。昔のヤンキーって、初めは知らない奴を威嚇する感覚ってあるじゃないですか? スケーターもそれと同じだったんですよ。いかに初っ端にスケボーのスキルでグッと言わせるかってことが大事だった。だから俺は、地方の大会とかに行くとがむしゃらに滑るんですよ。本番に弱いタイプだから、あんまり結果は残せて無いんだけど……(笑)。とにかく“印象だけはガッツリ残して帰ってくる”みたいなことをずっと続けてましたね。
竜太郎さんってスキルだけじゃなくて、キャラクターのインパクトも抜群じゃないですか。いつもスーパーハイテンションで、撮影場所に現れると、その場の雰囲気がグッと明るくなるくらい。すごく印象に残るタイプですよね。
竜太郎 でも俺、昔は結構おとなしい性格だったんですよ。
え、嘘でしょ?
竜太郎 おとなしいってわけじゃないけど、こんなテンションじゃなかったんですよ。こんなキャラになったのって、17歳くらいからだと思うよ。多分、チェリーを捨てて大人になってからかな(笑)。それにこのテンションは、結構演出も入ってるんですよね。雑誌とかに出るようになってからの。
演出というと?
竜太郎 よく紙面で、ポッケに手を突っ込んでカメラ目線でカッコつけたりしてる奴いるじゃないですか? そういう奴を見ると「オメー、10年後にこの雑誌見返したら恥ずかしいぞ!」って思うんですよ。「何かっこつけてんの?」って。そんな奴らばっかりが載ってる紙面の中で、弾けてバカやってる奴がいると「こいつ何?」って記憶に残るじゃないですか。だからアレ、結構意識してやってるんですよね(笑)。それに俺、人に素の表情を見せるのが大嫌いなんっすよ。
それはかなり意外ですね。ちなみに竜太郎さんは、いつの日からか『竜人』と名乗るようになって、今ではその愛称が定着していますよね。『藤井 竜太郎』が『竜人』と名乗るようになったのはどういった経緯なんですか?(以下、竜人)
竜人 17歳の時に関谷くんっていう先輩を介してジェシーくん(グラフィティライターでT19のスケーター)と知り合ったんです。そのジェシーくんが、RGOAというスケートブランドを始めて、俺もそのライダーに入れてもらったんです。RGOAの周りにはグラフィティライターが多くいて、ライターはみんなakaでタグネームを書くじゃないですか。そんな経緯から関谷くんが『お前にもakaが必要だ』ってなって、『じゃあ、お前は竜太郎だから“竜神”でいいや』って軽いノリで名付けてくれて。でも俺的には、“さすがに神はないでしょ!”って。最後の文字を“人”にしてもらって“竜人”って名前におさまったんですよ。
先ほどT19のジェシーさんの話が出ましたが、竜人さんといえば、東京を代表するスケートクルーのT19に所属してた印象が強いですよね。このクルーにはいつ入ったんですか?
竜人 俺が19の時。ジェシーくんやサルーダくんたちに気に入ってもらって誘われたんですよ。
17歳くらいでチョイスを辞めて、そこからからRGOAに参加して、RGOAと並行しながらT19のライダーとしても活躍していったって感じなんですね。
竜人 そうですね。19歳くらいの時はT19のアキラくん(尾澤彰)やヨッピーくん(江川芳文)、アキームくん(Akeem the Dream)とかと色々なパーク巡りをしてたっすね。とにかく、T19のメンバーは“R”がものすごく上手いチームだと思う。
その後は、ナイトレイドSB(NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのアパレルブランド、ナイトレイドから派生したスケートクルー)としても活躍されてましたよね。
竜人 さっきも話に出た関谷くんがニトロ(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)のトラくん(ラッパーのGORE-TEX)と繋がっていて、その関係でナイトロウの服を着るようになったんですよ。正式にメンバーに加わったのは、ブランド名がナイトレイドに変わってからかな。確か23歳。まだガキだったんですけど、そこから結構有名になっていった感じです。
確かにその頃って、ほぼ毎月のようにOllieやらSamurai magazineなどのファッション雑誌に出てましたよね。フォロワーもかなり沢山いて、まさにスタイルアイコンだった印象です。でも、ナイトレイドSBに加入する前から、既に有名人でしたよね?
竜人 そんなことないっすよ。確かにチョイスだったりRGOAで“有名になれた”って実感はあったんだけど、それはあくまでもスケボー業界の中だけ。もっと広い意味で“有名になれた”って実感できたのがナイトレイドSBに入ったくらいからだと思います。
そうなんですね。
竜人 そう。あとこの当時はいつも思ってたんだけど、プロスケーターはスケボーに乗ってるから輝いてるだけであって、スケボーを持たずに街を歩いてたらただの人間じゃないですか。それがスッゲー嫌で、スケートボードを降りた時の自分もちゃんと作っておきたいなって考えていたんですよ。
というと?
竜人 スケーターって、例えば、アメリカに行って成功して日本に帰ってきても、扱いが悪い気がしてたんですよ。そういったスケーターを見ていると、“いくら頑張って結果を残しても、板を持ってなかったらただの人なんだ”って思うようになってきて。だったら“俺には何ができるんだろ?”って考えて、考えて考えて、考えて考えて考え抜いた結果……、何にも思いつかなかった(笑)。考えても分かんね~から、とにかく遊ぼってことに落ち着いて、とにかく遊びまくってた時期でもありますね。そんで、ラッパーやらDJやら、スケーター以外の人脈を増やしていったんですよね。今思えばだけど、それが結果的にナイトレイドSBの活動にうまく反映されていたのかもね。
なるほど。因みにそんなナイトレイドSBの活動は、いつ頃から本格的に始まっていったんですか?
竜人 23、24歳くらいからナイトロウに関わってて、25歳くらいの時にナイトレイドに入ったんだっけな? そんで26歳くらいの時にナイトレイドSBを作る話が持ち上がったんですよ。俺がチームリーダーとしてメンバーの決定権をもらえたから、色々な地方の頭っていうか、イケてるやつだけを集めてチームを構成したんです。千葉で三枝(三枝博貴)、横浜でミノルくん(田口 稔)、横須賀でDEMI-DOPE、東京が俺っていう構成。初めはこの4人。そっからZIZOWくん、ルイくん(荒木塁)、柳町唯。もっと若い奴らも入れなきゃダメだってことで葵(清水 葵)とタツマ(玉野辰磨)が入ったんです。
今までは、誰かのクルーで活躍されてましたが、このナイトレイドSBは、竜人さんが主体となったクルーってことなんですね。
竜人 そう、ナイトレイドSBが初。だからやっぱり、一番思い入れの強いのはこのクルーかな。それに、それまでは俺のフルパートってあんまりなかったしね。
確かに竜人さんのフルパートが入ってるビデオって、世の中にあんまりないですよね。それはなぜなんですか?
竜人 単純に撮影が苦手だったんですよ。みんなで普通に滑ってる時はガンガン攻めれるんだけど、いざカメラを向けられると一気にできなくなるっていうか……。緊張とかじゃなくて“やらなきゃいけない”って言われると一気にできなくなっちゃうんですよ。ただ、金がかかるとスッゲ~実力を発揮するんだけどね(笑)。今となっては、ちゃんと残しとけば良かったなって後悔してます。
28、29歳くらいはどんな感じでした?
竜人 それこそ、ナイトレイドSBにがっつりだったかな。『RAIDBACK』(2009年※ナイトレイドSBとして最初に出したスケート映像)を作って、これがめちゃくちゃ売れたんですよ。それと並行して、自分のアパレルブランド、バムリッチを始めたのもこの頃。
この年には、日本人として初めて〈ナイキ〉から個人名義のシグネチャーシューズをリリースする快挙も達成しましたよね。
竜人 そう、アギト(ナイトレイドの旗艦店)に半端ないくらいの人が並んだね。そんでその後にナイトレイドSBの2作目となる映像、『A.N.T.I.』(2011年)を作って。これもスッゲ~売れたから、ギャラもガッツリもらってウハウハだった。も~この頃は、竜人絶好調の時代っすよ(笑)。
スケートボードのスキルだけでなく、オリジナリティのあるファッションスタイル、そして、圧倒的な存在感を誇り、2000年代の日本のスケートシーンで誰よりも燦々と輝いていたスタイルウォーズ。そんな竜人は、30歳という大きな節目を過ぎた現在、どういったライフスタイルを送っているのだろうか。現在の活動は後半の《今も自由奔放な生活を送る 竜人のポジティブな生き様》でお届けする。
とにかく、どこまでいってもスーパーハイテンションでポジティブ。この男の面白さは、そんなところにある!