ニキ・ラウダ
最強のオーストリア人ドライバー
1950年にF1世界選手権が創設されて以来、オーストリアは計16名のF1ドライバーを輩出しており、3名がレース優勝を記録し、2名がワールドチャンピオンを獲得したが、その中でF1史上最も偉大なドライバーのひとりとされているのが、1975 / 1977 / 1984シーズンの王者ニキ・ラウダだ。
ロン・ハワードが監督した映画『ラッシュ/プライドと友情』を観た人なら、ラウダの驚くべきストーリーは知っているはずだ。
1974シーズンにフェラーリへ移籍したラウダは、マラネロ在籍2シーズン目で自身初のタイトルを獲得するが、運命の1976シーズンにニュルブルクリンクで大クラッシュに見舞われ、重度の火傷を負ってしまう。
事故直後の意識ははっきりしており、立ち上がることさえできたラウダだったが、その後昏睡状態に陥り、臨終の秘跡さえ執り行われた。
しかし驚くべきことに、事故からわずか6週間、たった2戦を欠場しただけでラウダは選手権首位の座を守るべく復帰し、痛みと苦しみに耐えながらシーズンを戦い抜いた。しかし、最終戦日本GPのウェットコンディションがあまりに危険だとして自らリタイアを決断し、この結果、タイトルは好敵手ジェームズ・ハントの手に渡った。
ハントはこのレースで数々の苦難に見舞われながら3位までポジションを回復しており、ラウダからわずか1ポイント差でタイトルを獲得した。
1977シーズンのラウダは2位に17ポイント差でチャンピオンを獲得したが、フェラーリとの関係が悪化し、1978シーズンからブラバムへ移籍。1979シーズン中盤、それまでわずか2回しか完走を果たせていなかったラウダは突如レース界からの引退を表明し、母国オーストリアへ戻ると自らの航空会社ラウダ・エアの経営に専念した。
ところが、レースの誘惑は断ちがたく、ラウダは1982シーズンからマクラーレンから復帰する契約を交わすと、すぐに勝利の方程式を取り戻していった。
1984シーズン、ラウダはチームメイトのアラン・プロストをわずか0.5ポイント差で下して自身3度目のタイトルを獲得し、フェラーリとマクラーレンという2つの名門チームでチャンピオンに輝いた史上唯一のドライバーとなった。
1985シーズン限りで現役を引退したラウダは、フェラーリでのコンサルタント、ジャガーでのチームマネージャーなどを歴任。そして2012シーズンにメルセデスの非常勤会長に就任すると、ルイス・ハミルトン擁するメルセデス圧勝時代の土台を築いた。
近年、ラウダは健康状態が思わしくなく、2018年には肺移植手術を受けていた。そして再入院して腎臓透析を受けていた2019年5月20日、家族に見守られながら永遠の眠りについた。
ヨッヘン・リント
オーストリア人初のF1ワールドチャンピオン
F1オーストリアGPが開催されるレッドブル・リンクの敷地内には、1970シーズンのワールドチャンピオン、ヨッヘン・リントの胸像が静かに置かれている。
リントはドイツ・マインツ生まれだが、キャリアを通じてオーストリア国旗を背負って戦った。
1964シーズンのオーストリアGPでF1デビューし、その1年後にクーパーでフルタイムのシートを得たリントは、F1フル参戦を続けながらスポーツカー・レースでも活躍し、マステン・グレゴリーとのコンビでフェラーリを駆って1965年のル・マン24時間レースで優勝した。
1969シーズンにロータスへ移籍したリントは実力を発揮できるマシンを手にし、シーズン終盤のアメリカGPで初優勝を記録。続く1970シーズンは第9戦までに5勝を記録し、初タイトルを照準に捉えていた。
しかし、運命のあやと言うべきか、リントは第10戦イタリアGPプラクティス中のアクシデントで落命し、チャンピオントロフィーを受け取ることは叶わなかった。
リントが死去した時点でチャンピオンシップ2位につけていたジャッキー・イクスはイタリアGP以降の3戦で2勝を挙げたが、結局リントに5ポイント及ばなかった。
当時のF1は現代よりもはるかに危険で、死亡事故や重大アクシデントは珍しいものではなかった。ともあれ、死後にワールドチャンピオンに輝いた人物はリントだけだ。
ヘルムート・マルコ
1971年ル・マン24時間レース総合優勝 / 現レッドブル・モータースポーツ・アドバイザー
近年はレッドブルのモータースポーツ・コンサルタントとして活躍し、マックス・フェルスタッペンやピエール・ガスリーを育てたヘルムート・マルコは、1972シーズンのフランスGPで小石がヘルメットバイザーを直撃したことで片眼を失明してキャリアをわずか10戦で終えた元F1ドライバーだ。
しかし、この事故に見舞われる前、マルコはスポーツカー・レースで素晴らしい実績を築き上げていた。
1971年のル・マン24時間レースではジィズ・ヴァン・レネップとコンビを組み、ポルシェに2度目の総合優勝を届け、当時の同レース史上最長走行距離となる5335.313 kmを走破した。マルコとヴァン・レネップが打ち立てたこの記録は以後39年間誰にも破られず、2010年になってアウディがようやく更新した。
ゲルハルト・ベルガー
ベネトン / フェラーリ / マクラーレンに在籍しF1通算10勝
オーストリア人ドライバー直近のF1勝利を飾ったのは、3チームを渡り歩いて通算10勝を記録したゲルハルト・ベルガーだ。
ベネトンのマシンに乗ったベルガーは1986シーズン終盤のメキシコGPでF1初優勝を飾ると、1987シーズンからフェラーリへ移籍し、ティフォシたちのお気に入りとなった。
彼が飾った勝利の中でも白眉と言えるのが1988シーズンのイタリアGPだ。スクーデリアの創設者エンツォ・フェラーリの死後間もなく開催されたこのレースで、ベルガーはミケーレ・アルボレートを従えて1-2フィニッシュを達成してみせた。
ベルガーは1990シーズンからアイルトン・セナの僚友としてマクラーレンに移籍してさらに3勝を重ねたあと、古巣フェラーリへ復帰。1996シーズンからはベネトンへ戻り、1997シーズンのドイツGPでF1初勝利を記録した古巣でキャリア最後の優勝を記録した。
アレクサンダー・ヴルツ
1996年・2009年ル・マン24時間レース総合優勝 / F1表彰台獲得3回
アレクサンダー・ヴルツはF1デビュー前にル・マン24時間レース総合優勝を経験している。1996年にポルシェをドライブした当時22歳のヴルツは、この伝統の耐久レースの最年少優勝記録保持者だ。
ヴルツのF1キャリアは、同郷の大先輩ゲルハルト・ベルガーの病気代役としてベネトンから始まったが、F1デビューわずか3戦目で初表彰台(1997シーズン第9戦イギリスGP)を記録すると、1998シーズンに同チームでのフルシーズン参戦を勝ち取った。
また、ヴルツはファン・パブロ・モントーヤの代役として2005シーズンのサンマリノGPにマクラーレンから出走し、ここでも表彰台を獲得。その後2007シーズンにウィリアムズから再びフルシーズン参戦を果たすと、カナダGPでF1キャリア最後となる3位表彰台を獲得した。
2007シーズン限りでF1を引退したヴルツはプジョーのマシンと共にル・マン24時間レースへ復帰し、初優勝から13年を経て再びこの伝統のレースを制した。
